『木簡からみた飛鳥・藤原京』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)の第5回講義の報告です。
・日時:4月10日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「木簡からみた飛鳥・藤原京」
・講師: 和田 萃(わだ あつむ)先生 (京都教育大学名誉教授)
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*参考[飛鳥・藤原京(時代背景)]
○宮都の変遷
*(乙巳の変(645年):中大兄皇子・中臣鎌足⇔蘇我蝦夷・入鹿)
・645年 難波長柄豊碕宮(孝徳天皇)
・655年〜飛鳥へ(斉明天皇)
・667年 近江大津宮(天智天皇)
*(壬申の乱:大海人皇子⇔大友皇子)
・672年 飛鳥浄御波原宮(天武天皇)
・694年 藤原京(持統天皇)
・710年 平城京(元明天皇)

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.木簡について
(1) 「木簡は、レシートである」 (和田先生)
・当時の事実そのものをあらわす。(当時の生(なま)の史料)
・『古事記・日本書紀』や「古文書」をもとに組み立てられた古代史は、そのときの状況を伝えているが、どうしても時間的・内容的な片寄りは避けられない。このような史料の空間を埋めてくれるのが木簡である。今では、古代史研究に不可欠の重要史料となっている。
(2)木簡のいろいろ
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*右上の資料を参照してください。
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・手習いした木簡(62)…1枚の木簡に何度も繰り返し練習していた(習書木簡)
・租税の荷札に書いた木簡(23)…貢進物の荷札(付札)で、納税者の名前などが書かれている(付け札木簡)
・薬草を書いた木簡(66)、宮廷に関わる木簡(25)、宣命の木簡、年号を書いた木簡、国・郡の名を書いた木簡など(文書(もんじょ)木簡、その他の木簡)
・(注①)釈読(しゃくどく):その文字について可能な限りの情報を確定していく作業
 (注②)釈文(しゃくぶん):判断された文字列を書き留めたもの
(3)木簡の出土
・木簡が多く発掘されるようになったのは、昭和36年(1961)に奈良の平城宮跡で奈良時代の木簡が出てからである。その後、長岡京、藤原京、飛鳥などの宮都やその周辺、さらに国・郡の地方官衙や寺院など全国から出土している。今までに総数・約36万点が見つかり、数だけなら中国より多い。
(注)木簡は水漬け状態にないと保存されない。(地下水の供給によって乾燥による崩壊から守られている)

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2.藤原京出土の木簡が、郡評論争を決着させる
(1)郡評論争とは…いつから「評」から「郡」に変わったのか
・大宝律令以前、地方行政組織のコオリは「郡」「評」のいずれの字が用いられていたか。・・・多年にわたり学界の論争の的であった
(背景)
・『日本書紀』[大化二年(646)]「大化改新の詔」…政治改革の中に、地方を「国」「郡」「里」を単位とする制度の施行が記されています。
(2)藤原京出土の木簡
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*右上の木簡を参照下さい。
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・1967年11月、藤原京の北面外濠から 「己亥年十月上挟国阿波評松里」 の木簡が出土
(上総国安房評から税として藤原京に運ばれてきた貢進物に付けられた荷札)
「己亥年」は、文武三年(699) ⇒大宝律令(701年)の直前まで、「評」の字が公式に用いられている。その後も「評」と書いた7世紀の木管が出て来るが、大宝令を境として、それ以降の木簡では「郡」の字が表記されている。… “評が郡に変わるのは大宝令の施行をもってからである。”(岸俊男先生)
*「日本書紀は信用できるか〜大化改新の評価〜」…大化改新否定説、改新の詔は虚構に過ぎないという学説に、木簡が有力な論拠を与えることになった。

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(%ノート%)
和田先生は、恩師・岸俊男先生【1920年〜1987年/京都大学名誉教授、橿原考古学研究所の第三代所長】の助手として、昭和42年(1967年)から藤原宮跡・飛鳥宮跡出土の木簡の整理や釈読に従事されています。また、宮跡だけでなく、阿波国府(観音寺遺跡)でも調査され、いままで、約7千点の木簡を見ておられます。