『天誅組の道を辿る①』〜狭山報恩寺から水郡邸まで〜

(%赤点%) 「南河内ウォーク」の第1回の報告です。
『天誅組の道を辿る①』〜狭山報恩寺から水郡邸まで〜
・日時:4月29日(日)午後1時〜午後5時
・集合場所・時間:南海高野線「大阪狭山市駅」 午後1時
・解散場所:水郡邸 午後5時
・【コース】:大阪狭山市駅−報恩寺−加太村・龍雲寺−廿山村・長福寺−二中前・西国三十三度行者供養塔−錦織神社・天誅組石碑−養楽寺−水郡邸 (約6km)
・参加者:22名(女性10名、男性12名)
・講師:松本 弘氏(元神戸薬科大学非常勤講師、河内長野市郷土研究会副会長)
・スタッフ:松本(サヨ子)、日野上、山本、高野、常本
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*右上の写真は、「大阪狭山市駅」前で、資料(B4版で14枚)を
手にして、松本講師のガイダンスを聞いているところです。
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(%晴れ%) 天候は晴れ。午後は25℃と暑い日でしたが、龍雲寺(加太村)、
長福寺(廿山村)などの新緑が美しく映えていました。

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(%エンピツ%) 「報恩寺 」 (ほうおんじ)
・大阪狹山駅から西へ300m。浄土宗の寺。慶長五年(1601)に開基。
“天誅組が報恩寺に入る”
-文久三年(1863)8月14日【天誅組挙兵、京都・東山の方広寺に集合。中山忠光以下39名】。その夜のうちに大阪に入り、15日船で堺に到着。翌16日払暁に高野街道を通って、河内をめざし狹山・報恩寺に入り、狹山藩(藩主:北条氏恭(うじゆき))に協力交渉。…(藩主は急病と偽って面会を断り、家老が対応。暫らく御猶予をと、ようやく報恩寺へ引き取ってもらった)

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(%エンピツ%) 「龍雲寺」(りょううんじ)
・黄檗宗、住所は富田林市加太。
・狹山藩北条氏の墓地がある
・今は、緑の木々が生い茂り、落ち着いた佇まいです。…四季折々の花が楽しめるようにと工夫されていて、特に、蓮の花の観賞地として有名です。
*(注)(龍雲寺と天誅組は特に関係はありません)

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(%エンピツ%) 錦織神社・「天誅組河内勢顕彰碑」
・昭和三十八年(1963)11月3日、川西小学校にて天誅組百年慰霊祭を挙行、隣の錦織神社へ建立された河内勢顕彰碑の序幕式を挙行。
・顕彰碑々文
(表面)「花と咲き 花とちりにし人々の 若き命を誰が惜しまざる 菊の下水」
・副碑々文
「文久三年八月十七日、天誅組河内勢六十余人は、皇軍の先鋒として甲田水郡邸を出発し…大和に入り…討幕の第一声を挙げた。然るに翌十八日突如として京都に政変起こり、逆徒として追討せらることとなる。然れども少しも之に屈せず、・・・天誅組河内勢の遺勲は永久に忘れてはならない。」(昭和三十八年十一月三日)
・天誅組河内勢志士並に関係者氏名(省略)

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(%エンピツ%) 「水郡邸」(にごりてい)
*写真は、右側の家(水郡邸)の前で、松本講師の説明を聞いているところです。
・向田村(今の富田林市甲田)
“天誅組が水郡邸を出発する”
・「水郡たちは菊の紋章の旗、幟、武具を用意し、8月16日午後、水郡邸(水郡善之祐の屋敷)で中山たちと合流した。水郡は長子・英太郎(13才)を連れ、河内勢の盟主として隊伍を整え、翌17日未明に観心寺に詣った後、五条の幕府代官所を襲撃」
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(%ノート%) 次回、「南河内ウォーク」第2回のご案内
・月日:5月27日(日)
・コース: 「天誅組の道を辿る②」〜川西駅から滝谷不動駅まで〜
・集合場所・時間: 近鉄川西駅、午後1時
・講師:松本弘氏
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