『古代の難波と難波宮』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)の第7回講義の報告です。
・日時:5月8日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「古代の難波と難波宮」
・講師: 中尾 芳治先生(元帝塚山学院大学教授)
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(%エンピツ%) 講義の内容
Ⅰ.古代史上に見る難波宮…古事記・日本書紀・万葉集
○応神天皇と難波大隈宮(おおすみのみや)
○仁徳天皇と難波高津宮(たかつのみや)
・「民のかまど」(『日本書紀』仁徳天皇の巻)…「仁徳天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて、民のかまどより煙が立ちのぼらなないので、民が貧しいことを知り、租税を免除」
○欽明天皇と難波祝津宮(はふりつのみや)
○孝徳天皇と難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)
・「大化改新」と難波遷都(645年) (飛鳥から難波に遷都)
・日本書紀「宮殿の状(かたち)、悉く論ずべからず」(白雉3年(652))
(難波長柄豊碕宮は、言葉につくしがたいほど立派である)
・白雉(はくち)5年(654年)孝徳天皇崩御。655年 (難波から飛鳥に遷都)斉明天皇
○天武天皇の複都制構想 天武朝難波宮
・天武12年(683)「複都制の詔」…難波京(西都)・藤原京(首都)・信濃京(東都)
(唐では、首都の長安にほかに、洛陽を東都とした例が知られる。天武天皇が難波を副都としたのは、唐の高宗が定めた二都制にならったものであろう)
・朱鳥元年(686) 難波宮全焼
○聖武天皇の難波宮再興 奈良朝難波宮
・天平16年(744)難波宮を皇都
○桓武天皇の長岡京遷都
・延暦3年(784) 難波宮を長岡宮に移築

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Ⅱ.難波遷都の理由
1.東アジアの国際情勢
・隋・唐による中国統一と高句麗遠征を契機に⇒東アジアの国際情勢が緊張
・朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)と日本(倭)⇒隋・唐の文化を移入し、政治改革
・“大化改新”…皇統の争いもあるが、7世紀の東アジア情勢に触発されて起こる
2.難波の地域的特質…都市的な要素を持った先進的な場所
*右の「古代の宮都位置図」をご覧下さい。
①交通の要衝 ②外交・内政の要所 ③経済の中心 ④渡来人の集住

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Ⅲ.難波宮跡の発掘
1.難波宮の所在地を求めて
上町台地説(うえまちだいちせつ)
・天子の場所は、さわやかな高地の場所
・「民のかまど」−高台にあったのでは。
下町平野説(したまちへいやせつ)
・長柄、豊碕の名前が残っている場所
・広大な土地が必要
2.難波宮跡の発掘調査
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*右上は、前期難波宮・朱雀門跡です。
桁行五間(約23.5m)、梁行二間(約8.8m)。柱穴は大きく、
一辺が1.8mで、焼失した痕跡を明瞭にとどめる
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長い間、難波宮の所在地が不明であった
○1954年(昭和29)、山根徳太郎を中心に発掘開始、現在に至る。
・「鴟尾(しび)」の破片…1953年(昭和28)、法円坂住宅の建設中、偶然に鴟尾の破片が出土。山根徳太郎氏を法円坂に難波宮が埋もれていることに確信をもたせる貴重な資料となった。この翌年1954年に鴟尾が見つかった付近から難波宮の発掘調査が着手されることになった。
難波宮には前期と後期の二つがある(前期難波宮と後期難波宮が、上町台地北端の同一場所で見つかっている)。
・「重圏文軒瓦」と「蓮華唐草文軒瓦」…当時は、長岡京跡や平安京跡から出てくるものがよく知られていたため、奈良時代の遺跡と認められなかった。
・「掘立柱建物」・「火災の痕跡」…この発掘で、奈良時代の遺跡と認められる。(前期難波宮=難波長柄豊碕宮)
・「礎石建」、「瓦伴出」…前期難波宮と同一場所で発掘され、聖武天皇が再び、天平16年(744)に再び難波宮(後期難波宮)に都を移した。

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○山根徳太郎と難波宮発掘
・山根徳太郎氏(1889〜1973):考古学者、難波宮発掘に情熱をかたむけた学者
・日本書紀などの文献資料に記載されていたが、所在地不明のままであった難波宮は、山根氏を中心とする難波宮址顕彰会(なにわきゅうしけんしょうかい)による発掘調査によって、その全容があきらかにされていった。

・主な著書:『難波宮の宮』(1964年、学生社)(中尾芳治解説付新装版2002年)
・中尾先生は、山根徳太郎氏を支えた一人です。