『二上山 大津皇子墓への誘(いざな)い』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)の第8回講義の報告です。
・日時:5月15日(火)am10時〜12時10分
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「二上山の大津皇子墓の誘い」
・講師: 上野勝己先生(元太子町立竹内街道歴史資料館館長)
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(%エンピツ%) 講義の内容
○「なぜ、大津皇子の屍は、二上山に改葬されたのか?」
・「二上山」(にじょうざん)…奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山で、かつては、大和言葉による読みで「ふたかみやま」と呼ばれた。雄岳(517m)と雌岳(474m)の2つの山頂がある。また、石器に使われたサヌカイトの産地である。(ウィキペディアより)
・二上山雄岳山頂には、葛木二上神社と並んで大津皇子の墓がある。一説に皇子の墓は山麓にあるといわれるが、いずれにしても皇子は二上山に葬られたことになる
・今日の講義は、「日本書紀、万葉集、懐風藻、薬師寺縁起など」の文献史料から実像を追い求めた内容です。

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○ 『万葉集』大来皇女・大津皇子姉弟の歌
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*右の系譜をご覧下さい。
・姉の大来(大伯)皇女(おおくのひめみこ)と弟の大津皇子(おおつのみこ)。
母は大田皇女で667年頃(大津皇子4歳、大来皇女7歳)死去。
・鵜野皇女(後の持統天皇、草壁皇子の母)(大田皇女の妹)
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☆《相聞》大津皇子ひそかに伊勢の神宮に、下りて上り来ましし時の大伯皇女の歌
(巻二、105)「わが背子(せこ)を 大和に遣(や)ると さ夜深けて 暁(あかとき)露 に わが立ち濡れし」
☆《挽歌》大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む歌
(巻二、165)「うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を弟世(いろせ)とわが見む」
☆《挽歌》大津皇子被死(みまか)らしめらゆる時磐余(いわれ)の池のつつみにして涕(なみだ)を流して作りましし歌
(巻三、416)「ももづたう 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」

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○ 大津皇子の謀反と処刑
・667年…中大兄皇子は、近江大津宮に遷都し、翌年、正式に即位して天智天皇となる。
・671年…天智天皇崩御
・672年…壬申の乱【皇位継承をめぐる争い。(大海人皇子(天智天皇の弟)×大友皇子(天智天皇の子)】
・673年…大海人皇子即位(天武天皇)
・681年…草壁皇子・立太子(20歳)
・683年…大津皇子、朝政に参加。
●『日本書紀』大津皇子謀反関係記事
・朱鳥元年(686年) 9月9日[天武天皇崩御。皇后称制]
10月2日謀反、発覚。大津皇子逮捕。従者三十余人を捕む]
10月3日[大津皇子賜死。二十四歳。妃の山辺皇女殉死]
10月29日[従者は皆赦される]
11月16日[姉・大来皇女、伊勢より京師(みやこ)にかえる]

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○ 大津皇子二上山改葬時期…文献史料から大津皇子の二上山改葬は、[728年から730年]頃と推定される。
(1)持統天皇後裔(こうえい=子孫)の動向
<男性は、聖武天皇を除き、若くして死去>
-689年草壁皇子没(28歳)
-707年文武天皇(持統天皇の孫)没(25歳)
-728年聖武天皇の第一皇子基王没(2歳)など
*大津皇子の怨霊を強く意識し、神の山、二上山へ改葬した。
(2)改葬時期を728年から730年頃とすると、 『日本書記』は養老四年(720年)に成立しているので、二上山が記載されていないのは当然である。また、万葉集は八世紀後半に編纂されるので、大津皇子関係歌群はすでに作られた物語としての体裁を整えられ、二上山の歌も入っている。
(参考資料)(一部分を紹介)
・吉永登・米田勝「大津皇子の墓」(当麻町史)…(万葉集416について)「はたして大津皇子の歌であろうか。皇子の死をいたんでの後人の仮託ではないか。検討の余地があろう」
・中西進「大伯皇女を想う」・・・「万葉集の歌は、みんな作られた歌なんですね。これは作品でありまして・・・万葉集は真実を告白したものだという印象が強くありますが、必ずしもそうではありません」

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*上野勝己先生の講義は、体調の関係で、1年ぶりでした。
心配していましたが、以前と同様、白板の前を右左に動きながら、
休憩なしの2時間、熱のある講義でした。
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