『院政と保元・平治の乱』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回講義)の第11回講義の報告です。
・日時:6月12日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題: 「院政と保元・平治の乱」
・講師:若井 敏明先生(関西大学非常勤講師)
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*「摂関政治と院政」について
摂関政治…天皇の外戚(外祖父)が天皇の後見人として政務を代行するシステム。「摂政」は、天皇が幼少であったり女帝である際にもうけられ、866年、清和天皇の外祖父・藤原良房が臣下でははじめて摂政につく。「関白」とは、成人した天皇のもとで摂政同様の職務を行なう官職で、藤原基経の時代に設置。以来、藤原家の世襲となり、摂関政治は11世紀末まで150年以上続く
院政…天皇が「上皇」(譲位後の天皇の呼称)や「法皇」(上皇が出家したときの呼称)となって実権を握り、国を統治するシステム。8歳の息子・堀河天皇に譲位した白河上皇が、院庁を開設した1086年を院政の始まりと考える

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.摂関政治から院政へ
・後三条天皇の即位(1069年)…院政の布石を作る。後三条天皇の母は摂関家出身ではない。摂関家を外戚にしない天皇は170年ぶり。→後三条は摂関家に遠慮せずに政治を行なえるようになった。
・白河天皇(1053〜1129年)の即位と譲位(1086年)→院政の開始
【院政の形態】…院庁(いんのちょう)、院近臣、院の北面の武士[伊勢平氏(正盛・忠盛)の登用]
院近臣:摂関時代まで、中・下級の貴族でありながら、院に抜擢されて急速に高い政治的地位を得た。院は、院近臣を政治経済的な基盤を重視。また、男色を含む主従関係により、院近臣たちは、院の専制政治を支える存在。
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*右上の資料をご覧下さい。・・・白河天皇の父・後三条天皇の時、天皇親政。
白河上皇は、堀河・鳥羽・崇徳の3天皇の間、43年にわたり政界に君臨。
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2.鳥羽院政(1129〜1156年)の諸矛盾
○《天皇家内部の対立》(崇徳の悲劇)
・崇徳上皇(1141年←養子・近衛天皇に譲位)の立場…23歳の崇徳が譲位に応じたのは、将来の院政を約束されていたからにほかならない。⇔院政ができる上皇は、天皇の直系尊属に限定されているので、近衛天皇(体仁親王)を養子にしたが、宣命に「皇太子」とあるべきところ「皇太弟」とあった。
・鳥羽は、崇徳を白河院の落胤とみなして「叔父子(おじご)」と称し忌避していた。
・近衛天皇の崩御(13歳)⇒後白河天皇の即位
藤原信西の台頭…信西は、後白河天皇の乳母夫(めのと)
○《藤原・摂関家内部の対立
・関白・藤原忠通(ただみち)と弟の頼長(よりなが)が、家督と関白職をめぐる争い→両人の父・忠実(ただざね)は頼長を寵愛したが、後白河天皇は逆に忠通を重用。
・美福門院・得子と忠通の接近
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*右上の資料をご覧下さい。・・・・崇徳の母で、鳥羽の中宮であった待賢門院こと藤原璋子と、白河院との密通の噂、そして崇徳の出生にまつわる疑念。崇徳上皇と後白河天皇の主導権争い。
・崇徳上皇は、王者の教育を受けている(和歌の教養)⇔後白河天皇は、王者の教育を受けていない。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」(崇徳院)(百人一首)
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3.保元(ほうげん)の乱
・保元元年(1156年)7月、鳥羽法皇の崩御をきっかけに勃発
・後白河天皇・藤原忠通・源義朝・平清盛[勝] ⇔ 崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正[負]
・後白河方の夜襲攻撃で崇徳方は大敗。(わずか一日で勝敗が決まる)
 ↓
・崇徳上皇は讃岐に配流→王家の配流は前代未聞のこと!。頼長は敗死(首を射られる)。
・戦後処理…厳格を極め、200年ぶりに死刑が復活。(源為義・平忠正は死刑)
・後白河天皇の親政。藤原信西の主導、保元の新制(新立荘園の廃止など)

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4.平治の乱
・後白河院政下の派閥抗争
[院の側近①]…藤原信西・平清盛
[院の側近②]…藤原信頼・源義朝
・平治元年(1159年)12月、後白河院の近臣・藤原信頼(のぶより)と保元の乱の勝者・源義朝が、熊野参詣に出かけた平清盛の留守をついて、信西を殺害するが、帰京した平清盛に敗北。信頼は処刑され、義朝以下の河内源氏一門はほぼ全滅し、清盛が政治的地位を著しく上昇させた。

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*今日の講義は「保元・平治の乱」。王家・摂関家・院近臣・武士など、敵対した骨肉の争いの背景を学びました。⇒これからは、NHK大河ドラマ「平清盛」が、落ち着いて見ることができる…のではないでしょうか。
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