(%緑点%) 前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回講義)の第14回講義の報告です。
・日時:7月10日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「柳生宗矩と江戸時代初期」
・講師: 桧本 多加三先生 (雑誌「堺泉州」編集長)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.江戸時代初期略年表
1598年:秀吉没(幼少の秀頼が当主)
1600年:関ヶ原合戦
1603年:家康、江戸に幕府を開く(以後、徳川幕府は260年間続く)
1615年:大坂夏の陣(豊臣家滅亡)
1637年:島原の乱
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《江戸初期・3代にわたる将軍で統治組織を整備》
○家康(1603〜1605年)
・1607年:駿府の家康が大御所として実権
・1616年:家康没(翌年:東照大権現)
○秀忠(1605〜1623年)
・1614年:大坂冬の陣、1615年:大坂夏の陣
・1615年: 「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、一国一城令
・1619年:福島正則改易(安芸・備後50万石没収)
・1620年:秀忠の娘・和子入内(母は浅井三姉妹のお江)(後水尾天皇)
○家光(1623〜1651年)
・1629年:紫衣(しえ)事件(沢庵は出羽に流罪)
・1632年:加藤忠広(清正・子)改易(熊本52万石を庄内1万石に移封)、大目付設置
・1637年〜38年:島原の乱
・1638年:大老職設置
・1641年:オランダ人を長崎出島に隔離(鎖国の完成)
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2.柳生家の三代
(1)柳生宗巌(むねよし)(1527〜1606年)(柳生石舟斎宗巌)
・柳生一族は、菅原道真を祖とし、代々菅原氏を名乗って大和柳生の里に住む
・柳生新陰流…宗巌(石舟斎)は新陰流の創始者・上泉信綱に学び、無刀取りの技を考案したことで、特に柳生の冠することが認められた流派。
・宗巌(八代当主)の時、所領没収…羽柴秀長(秀吉の弟)が大和守になり検地を行なった際、隠田(かくしだ)がみつかり柳生の里を没収。
・徳川家康に仕えてから旧領地・柳生の里を取り戻す。
(2)柳生宗矩(むねのり)(1571〜1646年)(柳生又十郎(又右衛門)宗矩)
・父・石舟斎(宗巌)の五男。剣術は兄の方が勝っていたが、宗矩は雄弁であった。
・文禄三年(1594年)宗巌66歳、宗矩24歳の時、家康に近づく(黒田長政の紹介)→家康は石舟斎に仕官を勧めたが、老齢を理由に辞退し、代わりに指南役(実質的には警固役)で宗矩が250石で召し抱えられた。
・二代・秀忠に仕え、2000石を与えられる
・三代・家光に仕え、1万2000石の大名となる
(3)柳生光巌(みつよし)(1607〜1650年)(柳生十兵衛三巌)
・宗矩の嫡男で剣客として有名。新陰流を習得して、約10年間、諸国で武者修行。
・家光に可愛がられ、のちに大和国で柳生流を唱え、弟子は13,000人にのぼったという。
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3.実際の宗矩
○家康・秀忠・家光の三代の将軍に仕える
・父・石舟巌の子供で、宗矩は剣術が一番強いのではなく、雄弁であった。→雄弁ということは、「人の心をとらえる」ことがうまく、“ごますり”ではなく、将軍の“いいところを伸ばす”役割をしたと考えられる
・三代の指南役として仕え、将軍の警固、相談役、諜報活動など仕事は多岐にわたっていたと思われる。
○紫衣事件(沢庵と宗矩)
・沢庵は宗矩の2歳下で、若いころより、お互いに認め合った間柄。
・寛永四年(1627年)、幕府は後水尾(ごみずのお)天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみな、し京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。→沢庵などが反対運動。→1629年、幕府は沢庵を出羽国へ流罪。
・1632年、秀忠の死により大赦令が出され、宗矩や天海の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。家光は、1639年、東海寺(品川)を創建し、沢庵を住職として迎えている。
・【沢庵】(1573〜1646年)…但馬国出石の生れ。1607年に臨済宗・大徳寺首座。1609年37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺に戻る。[堺の南宗寺…大坂夏の陣で焼失したが、沢庵(住職)が再興。]
○島原の乱
・宗矩は、「宗教で一丸となっている者に対して、小藩主の板倉重昌(1万5000石)を総大将にすれば、失敗する」と提案して反対したという話がある。⇔結果として、板倉重昌は戦死し、新たに老中・松平信綱を派遣して討伐した。
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◆石舟斎の言葉
「無刀取りの極意は、天下を治める まことの剣」
◆宗矩の言葉
「大将の剣は、勝ち負けにこだわる剣ではなく、天下万民の泰平を祈る剣」
・治世者が学ぶべき平和の剣と位置づけたところが、徳川家三代に気に入られたのではないか。
・柳生新陰流は時代の変化に対応…禅の影響を受け、ただの殺人剣法とは一線を画して平和な世を守る修身の剣をめざした。
*「柳生家」は、明治維新に至るまで、代々将軍家の兵法指南役をつとめた。