『戦国大坂の寺内町〜富田林寺内町と「石山合戦」〜』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回講義)の第15回講義の報告です。
・日時:7月17日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:戦国大坂の寺内町〜富田林寺内町と「石山合戦」〜
・講師: 天野 忠幸先生(関西大学非常勤講師)
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*右上は、十六世紀末頃の富田林復元図です(伊藤毅氏作成、中西立太氏イラスト)。周囲を殆ど全部土居で囲み、四方に出入口に門を構え、町は碁盤目に作られ、中央に興正寺別院がある。
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[参考]*室町時代後期〜戦国時代* (寺内町の時代背景)
・1467〜1477年:応仁の乱 (細川側=東軍、山名側=西軍)
・1471年:蓮如、越前に吉崎道場を創建
・1479年:蓮如、山科に本願寺再興
・1496年:蓮如、石山御坊を創建
【群雄割拠(戦国大名の分国支配)】(1490年頃〜1600年頃)
・1560年:桶狭間の戦い(織田信長、今川義元を破る)
・1568年:信長、足利義昭を奉じて入京
・1570〜1580年:石山合戦(信長⇔顕如、1580年和睦)

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.寺内町・浄土真宗とは
○寺内町…15世紀後期から16世紀後期、特に浄土真宗の寺院を中心に形成された町場。土塁や堀で周辺の村落と区別、経済特権を獲得。寺内町は、戦国時代の大阪を語るうえで欠かせない存在
○浄土真宗…阿弥陀仏にのみ帰依、加持祈祷を行なわない。主要10派(本願寺派、大谷派、高田派、興正派など)。僧侶に肉食妻帯が許される→そのため、親鸞の血統関係による血脈と師弟関係による法脈の2つの系譜が存在する
●浄土真宗と一向宗
・浄土真宗=一向宗ではない(本願寺派では一向宗という呼び名は拒否)。一向宗は、山伏・陰陽師・琵琶法師などを包摂(加持祈祷を含む)。
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2.興正寺と本願寺
蓮如(1415〜1499年)の登場…本願寺第8代。布教[御文章(御文)、六字名号など]により、一般に広く教化し、本願寺・中興の祖。
・子は男子13人、女子14人(生涯に5度の婚姻)
・越前吉崎御坊−山城山科−摂津大坂(石山本願寺)
興正寺の活躍
・山科本願寺の焼討(1532年、細川晴元は日蓮宗徒と結び焼討)
・興正寺は、武家との和平交渉役。また、西国へ独自に布教し、堺商人との関係強化
・興正寺別院の建立…河内富田林、讃岐野原(高松)

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3.富田林寺内町の成立
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*右は、「富田林」が初見される禁制の古文書です。
・永禄三年(1560年)下野守三好政生が富田林宛に出した禁制です。→「禁制」とは、武家に特権を保証してもらうもので、希望する保護内容(兵隊の乱暴や兵糧等強制徴収の禁止など)を書いてもらい、礼銭を払う。
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○富田林寺内町成立の三つの背景
①旺盛な開拓意欲を持つ周辺農村…中野村・新堂村・山中田村・毛人谷村の四ケ村から1か村2名宛ての庄屋8人が芝地を開発
②武家権力との仲介役となる戦国仏教・興正寺と堺商人…毛人谷にあった興正寺の「道場」を移転し、興正寺別院の堂舎建立(1561年頃)
③特権を保証する武家・三好氏

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4.「石山合戦」への対応
○「石山合戦」とは
◆元亀元年(1570)〜天正八年(1580)の約11年間に及ぶ本願寺と織田信長の戦い
(注)戦国時代は「大坂」と呼び名、江戸時代に入って「石山」と呼称。→「石山」の呼び名は、蓮如が礎石となる石を次々と発見し堂舎建立を思い立った伝承や蓮如の母親が滋賀県の石山寺の観音の化身であるとの伝承から→教団内部で聖戦化、外部的には大坂城との区別をするため。
勃発の原因
・従来は、信長の大坂退去要求。近年は、三好方への支援で、大坂退去要求は大坂から遠い末寺への大義名分
・信長は野田・福島に籠城する三好氏攻めに苦戦中
○信長の「富田林」への対応
信長は、お寺と交渉するのではなく、住民に対して交渉し懐柔
・1560年、三好氏→文書を出す宛先「富田林道場」(道場:仏法の修行する場所や建物をいう。寺院)
・1570年、織田信長→文書を出す宛先「富田林寺内中」(「〜中」は、人々の共同体を示す。現在でも団体あてには「御中」)
・1572年、柴田勝家→文書を出す宛先「富田林惣中」(惣(そう)は、室町時代、荘園解体期にあらわれた村人の共同体的結合。村民全体の名によって村の意思を表示し、また行動する場合にいう。惣中、惣村)
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・富田林は中立ないし信長方へ

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5.おわりに
・戦国大坂の寺内町は、農村の結集都市の資本特権を付与する大名在地と大名を取り次ぐ寺院で形成。

・「石山合戦」では都市の繁栄を保証する信長方を冷静に選択しています。

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(%赤点%) 平成24年前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回講義)は、
今日(7月17日)で終了しました。
講師の先生並びに受講生・聴講生の皆様に、厚く御礼申し上げます。

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