谷崎潤一郎〜『細雪』と大阪〜

(%紫点%) 後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全11回講義)の第1回講義の報告です。
・日時:H24年9月6日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:谷崎潤一郎〜『細雪』と大阪〜
・講師:三島佑一先生(四天王寺大学名誉教授)
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*谷崎潤一郎の作品に関する講義は、今日で第3回です。
・第1回: 『蘆刈』と船場(H23年10月27日)
・第2回: 『春琴抄』の謎と船場(H24年4月5日)
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[谷崎潤一郎・略歴]
・1886年(明治19)(東京・日本橋生まれ)
・1923年(大正12)38歳:9月1日関東大震災。…一家を挙げて関西に移住
・1933年(昭和8)48歳:兵庫に転居−1944年(昭和19)59歳:熱海に疎開−1945年(昭和20)60歳:岡山県津山市、勝山町に疎開−1946年(昭和21):京都に移る−1949年(昭和24):文化勲章−1950年(昭和25):熱海に別邸(夏・冬をここで過ごす)
・1965年(昭和40)80歳:(湯河原の自宅で逝去)

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[作品・年譜]
・「刺青」(1910年)、痴人の愛(1924年)、「卍(まんじ)」(1928年)、 「蘆刈」(1932年) 「春琴抄」(1933年)、「文章読本」(1934年)、「潤一郎訳源氏物語」(1939年)、「鍵」(1956年)、「瘋癩老人日記」(1961年) 他
「細雪」(1943年〜1948年)
-1943年(昭和18):「細雪」、中央公論に発表
-1944年(昭和19):「細雪」上巻、私家版200部
-1947年(昭和22):「細雪」中巻 刊行
-1948年(昭和23):「細雪」下巻 刊行
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*右上は、「細雪」がはじめて中央公論に出たときの資料です。昭和18年の
新年号と3月号に掲載。しかし、7月号では、ゲラ刷りのままで日の目を見る
にいたらなかった。(軍部より「時局にそわぬ」がその理由であった。)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.『細雪』(ささめゆき)と四人姉妹
・『細雪』は、大阪船場で古い暖簾を誇る蒔岡(まきおか)家の四人姉妹が繰り広げる物語
・右は、『細雪』蒔岡家系図です。
-「鶴子」(長女)[本家]の婿養子辰雄は学校出で、しかも銀行勤め
-「幸子」(次女)[分家]の夫は、学校出の計理士
-「雪子」(三女)は、美人であるが婚期を遅らせて三十路にもなっている← 「細雪」では、三女雪子の見合いを骨子に描いています
-「妙子」(四女)は、恋愛事件をおこして姉達を手こずらせる奔放な女性

2.船場文化の崩壊過程を描く
船場の商家は女系家族。丁稚・手代・番頭と実地に経験を積んできた店の者を婿養子に迎え、暖簾を継いできた。←本来、4人の娘がいて、店がつぶれるのはおかしい。
・『細雪』の舞台は、芦屋であって船場ではない。船場にあった蒔岡家が船場から引き揚げてしまった後から、話がはじまります。
・谷崎にとって、『細雪』を描くのに船場の商売の世界は邪魔であった。→本家・長女の婿養子辰雄を、学校出、しかも卒業後すでに数年も銀行勤めをしてきた男で、「臆病で」、「家業を再興するのに不向きな男」として描く。

3.『細雪』と船場ことば
・細雪では、全編の会話が、”船場ことば”で書かれています。
・谷崎は東京生まれ。大阪に来てみると、大阪城のある上町台地より下町の船場が大阪の中心として尊重され、そこでは船場ことばが形成されているのに強い羨望。
○(船場ことば)
店主は「旦(だん)さん」、店主の妻を「御寮人(ごりょん)さん」、息子を「ぼんぼん」、
娘を「いとさん」転じて「とうさん」、末娘を「小(こ)いさん」

4.『細雪』と戦争の影響
・谷崎が、『細雪』の稿を起こしたのは、太平洋戦争が勃発した翌年、即ち1942年(昭和17年)のこと。
・「昭和十七、十八、十九の3年は、熱海で書き、二十年になって岡山県の勝山で、平和になってから京都と熱海で書いた」(「細雪」回顧より)(谷崎)
・「芦屋あたりの上流階級の、腐敗した、頽廃した方面を描くつもりであった。ところが時局の関係で軍部などの圧力で危険になってきたので、にらまれないような面だけを描くことになっってしまった。・・・「細雪」という題はそうなってから、雪子を主人公にするつもりで思ひついたのである」(「細雪」を書いたころ(昭和36年)(谷崎)
・昭和13年7月5日の「阪神大水害」が、『細雪』中巻に描かれている。→大水害に妙子が危険にさらされ、板倉(恋人)に助けられる。その後、板倉は脱疽で死ぬ。…谷崎は、大水害を戦争(無残にも多くの人が死んでゆく)に重ね合って描き、恋人・板倉の死を、戦争に出征した人と重ね合わして描いた。(三島先生)

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5.まとめ
(1)『細雪』の本文
・[冒頭文] ⇒ 「こいさん、頼むは。−−」鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子をみると自分で襟を塗りかけていた刷毛(はけ)を渡して、其の方は見ずに、目の前に映っている長襦袢姿の、抜きいも衣絞の顔を他人のように見据えながら、「雪子ちゃん下で何をしている」と、幸子は聞いた。
・[終わりの文 ]…終わりは、雪子が御牧(華族の御曹司)との婚約がととのって、結婚式のため東京へ発つところでこの作品は終わる。
(2)山崎豊子の船場を描いた作品
・「女系家族」(1963年)…山崎は船場育ちなので、谷崎とは違って、むしろ船場のアラがよく見え、莫大な遺産をめぐる欲と欲とのぶつかりあいを描いた。
(3)「細雪」は優雅な作品
・谷崎は、関東大震災にあって、関西に来て新しい境地を開いた。⇒船場にあこがれを持って、東京人の目で、大阪を見、大阪の人間が気がつかないようなことを鋭く突いています。
・戦争の時代に、軍部の統制をさけて、雪子を主人公に描いたことで、優雅な作品となった。(三島先生)