(%緑点%) 後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全14回講義)の第3回講義の報告です。
【現地講義です】
・日 時:9月25日(火)am9時40分〜12時30分
・集 合:JR阪和線「鳳駅」
・講 師:桧本多加三先生(雑誌「堺泉州」編集長)
・[コース]:鳳駅−大鳥大社ー(約1.5km)−家原寺−津久野駅
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(%エンピツ%) 「大鳥大社」(おおとりたいしゃ)
・大阪府堺市西区鳳北町にある神社で、和泉国一宮、式内社(名神大社)。
・主祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやかみ)
・日本武尊が、死後“白鳥”となって最後に留まったのが、大鳥の地で、里人が白鳥をおまつりするために建てられたといわれている。
・境内1万5千坪には、種々の樹木があり「千種(ちぐさ)の森」と呼ばれている。
*右上の写真は大鳥神社の入り口です。この神社の前(西側)を通るのが、平安時代末期に大流行を始めた熊野街道で、白河上皇(14回)、鳥羽上皇(21回)、後白河上皇(34回)、後鳥羽上皇(28回)も熊野詣を行なった。
——————————————
◆本殿 「大鳥造」(おおとりづくり) (右の写真が本殿です)
・神社建築史上、大社造(たいしゃづくり)に次ぐ古い様式で、大鳥造と呼ばれている切妻造の妻入り神社建築。
・本殿周辺には、“おがたまの木”が植えられている。
——————————————
◆ 「富岡鉄斎と大鳥神社」
・富岡鉄斎[天保七年(1837)〜大正十三年(1924)]、明治大正期の文人画家、儒学者で、近代日本画に独自の地位を築き、いまなお世界からも高い評価を受けている。
・鉄斎は、明治維新後の30歳から40代半ばまで、石上(いそのかみ)神社や大鳥大社の神官(宮司)を務めた。←明治になって、大鳥大社は廃仏毀釈で千種の森だけが残っているという状態であった。鉄斎の画家と書家の力と歴代の宮司の努力とで、現在のような大鳥大社となった。
・平清盛の歌碑は、鉄斎が筆で書き、石に刻んだものです。
——————————————-
◆ 「平清盛と大鳥神社」(写真−右奥に清盛の歌碑)
・平治元年(1159)、平清盛・重盛父子は、一族とともに熊野参詣の途中、京にて兵乱あるとの急報を聞いて、都に帰る途中、この大鳥大社に参拝し、戦勝を祈願した。
・このとき、和歌一首と神馬一頭を献じた。
「かひこぞよ かへりはてなば 飛びかけて 育み立てよ 大鳥の神」 (平清盛)
・京にもどった平清盛は、藤原信頼を処刑し、源義朝以下の河内源氏一門はほぼ全滅。…平家全盛時代を迎えることになった。(平治の乱)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(%エンピツ%) 「家原寺」(えばらじ)-(右の写真が、本堂です)
・大阪府堺市西区家原町にある高野山真言宗別格本山の寺院。
・行基が、37歳の時、母方の実家があった生誕地に、父と母の菩提寺として建てたのが家原寺。行基は和泉・河内・摂津・大和・山城に49院建てたが、その第一号が家原寺。
・本尊は、行基の自作と伝えられる“文殊菩薩”。
・“知恵の文殊さん”として、入学試験シーズンには、合格を願う多くの参拝客で賑やか。→「合格祈願」は、昔はチョークで本堂に書いていたが、今はハンカチを購入して、そこに希望学校名等を書いている。
—————————————–
◆ 「行基」のこと
・生没年:668年(天智7年)〜749年(天平21年)
・河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)の母(蜂田氏)の家で誕生。父は百済渡来系氏族(高志氏)。
・当時、“僧は寺院にいること”されていて、国家公務員的な存在であった。ところが行基は多くの庶民に仏教を説き、多くの庶民を引き連れて治水・架橋などの土木工事などの活動するため、世を惑わすものとして「小僧」(僧でない者)呼ばわりされていた。
⇒“禁圧を受ける”(717年、民衆を扇動し、寺外の活動が僧尼令に違反するとして布教活動を禁圧される。
・“大僧正になる” …大仏造営に際して、幅広い民衆の支持が必要であったため、行基を大仏造営費の勧進(資金集め)に起用。その功労により745年(78歳)、我が国で初の大僧正となった。
・行基の本当の偉大さは、畜生と同じ扱いだった庶民を、「人間」扱いしたからである。
・行基が建てたと伝えられるお寺は、全国で約3,000あるといわれている。