『ヤマトタケル伝承』

(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月9日(火)am10時〜12時15分
・場所:すばるホール(第2会議室) (富田林市)
・演題: 「ヤマトタケル伝承」
・講師:和田 萃先生(京都教育大学名誉教授)
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(%エンピツ%) 講義の内容
*『記紀』について
『古事記』
・成立:和銅五年(712年)、稗田阿礼が誦習した帝紀・旧辞を太安万侶が撰録
・3巻、記載は天地開闢から推古天皇(33代)まで
・古い時代を中心に書く
『日本書紀』
・成立:養老四年(720年)、舎人親王ほか数人による共著
・30巻、天地開闢から持統天皇(41代)まで
・古代史から新らしい時代まで書く
・帝紀・旧辞に、宮廷・豪族・社寺・百済の記録を取り入れて記載
*古事記に親しむ方法/推奨の本(和田先生)
・古事記は文学性に富んでいるので、全3巻を通して読んでほしい。→読み下し文を読んで、現代語訳を読むのが良いでしょう。
(推奨の本)
・「日本武尊」(上田正昭著)(吉川弘文社、昭和35年)
・「ヤマトタケル」(吉井 巌著)(学生社)
・「古事記」(中村啓信訳注)(角川ソフィア文庫、平成21年)
*ヤマトタケルの物語(あらすじ)
「若くして九州の熊襲征伐に赴き、さらに東国遠征に出かけて行き、野火の難・弟橘姫の入水の苦難を乗り越え、大和への帰還を目前にして伊勢の能褒野(のぼの)で悲劇的な最期を遂げた。」

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○ヤマトタケル伝承
1.景行天皇の皇子
(右の資料は、『古事記』(中つ巻[景行天皇])
*(大意)【景行(けいこう)天皇は、纏向の日代宮(ひしろのみや)においでになって、天下を統治なさった。この天皇が、吉備臣(きびのおみ)たちの祖先の若建吉備津日子の娘の、名は針間(播磨)の伊那比大郎女(いなびのおおいらつめ)と結婚して、お生みになった御子は、櫛角別王、次に大礁命(おおうす)、次に小礁命(をうす)で別名は倭男具那命(やまとおぐな)、次に倭根子命、次に神櫛王、五人。】

倭建命(やまとたける)は、熊曾征伐のとき、熊曾建より“ヤマトにならぶもののない勇者という意味でヤマトタケルの名を称された”。
・倭建命の話は、三つの名前(ヲウス、ヤマトオグナ、ヤマトタケル)で語られている。
・日本書紀(巻第七・景行天皇)では、「大礁皇子と小礁尊は、双子に生れた」とある。
・ヤマトタケルは、古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊と書く。

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2.ヤマトタケルの東国征伐
(右の資料は、『日本書紀』(巻第七 景行天皇)
*(大意)【日本武尊(やまとたける)、相模の馳水(はしるみず)では、暴風が起こって、渡海を妨げられた。海神の怒りをおさえるため、后・弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水という犠牲で、渡ることができた。】

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3.美夜受比売と草薙剣
(右の資料は、『古事記』(中つ巻[景行天皇])
*(大意)【尾張国に戻ってきて、美夜受比売(みやずひめ)と結婚なさった。倭建命は、その身に帯びている草薙の剣を、美夜受比売のもとにおいて、伊吹山の神を討ちに行かれた。・・・山を登って行く時に、白い猪と出遭った。「これは山の神の使いだ。今殺さずとも戻るときに殺してやる」と言って山を登った。すると激しい雹(ひょう)が降り注ぎ、倭建命は打ちのめされたのである。実はこの白い猪は神の使いでなく伊吹山の神自身であった。】

・三種の神器…「八咫鏡(やたのかがみ)」(伊勢神宮)、「八尺璁勾玉(やさかにのまがたま)」(天皇家・宮中)、「 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)−草薙剣」(熱田神宮)

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4.八尋白智鳥となりて天に飛翔
(右の資料は、『古事記』(中つ巻[景行天皇]白鳥の陵)
*(大意)【倭建命の訃報を受けて、大和にいる后と御子たちは、能煩野(のぼの)に下ってきて、御陵をつくり、哀しみの声を上げて泣いた。・・・そのとき、倭建命の霊魂が、大きな白い千鳥となり、天に飛翔して、浜に向かって飛んで行った。・・・この四首の歌は、どれも倭建命の葬儀に歌った。それから、大きな白い千鳥は飛翔して、河内国の志機(紀)にお止まりになった。しこで、その地に御陵を作って、鎮座申し上げた。その御陵を名づけて白鳥(しらとり)の御陵という。しかし、またその地から天高く飛翔してお行きになった。】

・『日本書紀』では、河内国志紀ではなく、「河内の古市邑(ふるいちのむら)に留まる」とある。
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ヤマトタケルは実在の人物ではない (和田先生)
・「建部(たけるべ)」集団の間で語られた英雄伝説
・「建部」は、東は常陸、西は薩摩にいたる各地域に存在しており、とくに濃厚な分布地域は、吉備・筑紫・出雲・美濃・近江。→ヤマトタケルに結集される皇族将軍の征討説話をつくった。(「日本武尊」(上田正昭著より)
・雄略天皇(ワカタケル大王)をモデルにして語られたという説もある。