(%紫点%) 後期講座(文学・文芸コース)の第4回講義の報告です。
・日時:10月18日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:『織田作之助』〜南河内の知られざる地縁血縁〜
・講師:井村 身恒(いむら みつね)先生(オダサク倶楽部代表)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.織田作之助(1913−1947) 略年譜
・1913年(大正2):大阪市天王寺区生玉前町に生れる
・1931年(昭和6):(18歳)第三高等学校(現、京都大学教養部)文科に入学
・1935年(昭和10):(22歳)同人雑誌「海風」を創刊。創刊号に戯曲『朝』を発表
・1939年(昭和14):(26歳)一枝と結婚。大阪府南河内郡野田村の借家に住む。日本工業新聞社に入社
・1940年(昭和15):(27歳)『俗臭』が芥川賞候補となる。「海風」に『夫婦善哉』を発表(改造社の第一回文芸推薦作品)、日本工業新聞を辞し、作家生活に入る
・1944年(昭和19):(31歳)妻一枝が死去。
・1945年(昭和20):(32歳)野田村を離れ、一時、富田林の竹中家に寄寓
・1946年(昭和21):(33歳)宝塚近郊の笹田和子と結婚、短期間で破綻。取材をかねて上京。11月、「改造」主催の太宰治・坂口安吾らとの座談会に出席(銀座・ルパンに行く )
・1947年(昭和22):(34歳) 1月、東京病院で永眠。
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*来年(2013年)は、織田作之助生誕100年。
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2.南河内の地縁血縁
○1939年(昭和14):(26歳)一枝と結婚。
・大阪府南河内郡野田村の長屋(南海線「北野田駅」の近く)に住む
・カフェの女給であった美人の一枝(姉さん女房)。
・昭和19年に妻一枝が死去。
☆短編小説 『高野線』 (愛妻を亡くしたた直後の心象風景を綴る)
(冒頭文)「九月三日の夕刻南海電車の高野線で死者七十数名という電車事故があった。聴けば、乗客を満載した電車が紀見峠の谷底へ墜落したということである。翌朝、同じ線の事故で数名の死者が出た。この方は私の住んでいる土地のすぐ近くの萩原天神駅で起こった追突事故であった。・・・」→ 最愛の妻を亡くした男の孤独や寂寥感が、事故の死者や遺族の表情などを軸に描かれている。
☆短編小説 『蚊帳』 (死んだ妻・一枝との新婚時代を追憶しながら、蚊帳という小道具を巧みに生かして描いた短編)
「彼の家は池の前にあった。蚊が多かった。新婚の夜、彼は妻と二人で蚊帳を釣った、永い恋仲だったのだ。蚊帳の中で蛍を飛ばした。妻の白い体の上を、スイスイと青い灯があえかに飛んだ。・・・」
☆織田作は俳句が趣味(先輩・藤沢恒夫宅での句会に参加)
「行き暮れて ここが思案の 善哉かな」 (野田丈六)(俳号は野田村丈六の地名から)
○1945年(昭和20):(32歳)野田村を離れ、一時、富田林の竹中家に寄寓
・織田作の実姉・竹中タツさんは、昭和20年に富田林市寿町に引越して住んでいた。
・織田作が富田林に寄寓したのは数ヶ月にすぎない。⇒絶筆となった『土曜夫人』はこの家で書き始められたという。
・竹中タツさんは、織田作の遺稿約千枚と蔵書二千冊を所蔵していたが、東京の近代文学館に寄贈。
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3.無頼派(新戯作派)の作家
*右の写真は、林忠彦氏(1918−90)の撮影した”銀座ルパンでの織田作”(昭和21年)
・戦前戦後の文学界に「無頼派」(ぶらいは)と称される作家が在った。織田作之助・太宰治・坂口安吾らである。太宰と安吾は全国的にもてはやされ、いまに読み継がれる作品も多いが、織田作は『夫婦善哉』があるのみで、多くの斬新な文学や評論を知る人は少ない。
・坂口安吾の織田作之助への追悼文「大阪の反逆−織田作之助の死ー」(「改造」昭和22年4月号)
「彼(織田作之助)はあまりにも、ふるさと、大阪を意識しすぎたのである。ありあまる才能を持ちながら、大阪に限定されてしまった。(中略)だが我々に織田から学ぶべき大きなものが残されている。それは彼の戯作者根性ということだ。読者をおもしろがらせようというこの徹底した根性は、日本文学にこれほど重大な暗示であったものは近ごろ例がないのだ。(略)」⇒彼らは戦後の虚脱、混迷の状況の中で、既成の文学観や方法に反発した。俗世間におもねった、洒落や滑稽と趣向を基調とした江戸期の“戯作(げさく)”の精神を復活させようという論旨。
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4.織田作之助の作品
○小説
☆「夫婦善哉」 (短篇)(1940年)
(書き出し)「年中借金取がでは出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他、いづれも厳しい催促だった。・・・(略)」
−作者の次姉・山市千代とその夫・乕次をモデルにした作品とされ、織田作の代表作である。構成は年代記的で、文体は語り物風である。
・「青春の逆説」(長篇)(1941年) 、「雪の夜」 (短篇)(1941年)
・「木の都」(短篇)(1944年)、「蛍」(短篇)(1944年)
・「猿飛佐助」(中篇)(連続放送劇)(1945年)
・「六白金星」(短篇)(1946年)、「アド・バルーン」(1946年)、「土曜夫人」(長篇)(1946年)(読売新聞に96回にわたって連載された未完の作品)
・・・など多くの作品あり。
○評論
・「可能性の文学」(1946年)など
*井原西鶴、スタンダール(「赤と黒」)の影響を受けたとされる。
*僅か6年間という短い作家生活でしたが、多くの作品を書いています。