『邪馬台国連合の成立』

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)の第6回講義の報告です。
・日時:10月23日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「邪馬台国連合の成立」
・講師:白石太一郎先生(近つ飛鳥博物館館長)
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「倭国の成立はいつか」 の復習 (4月17日の講義(白石先生))
○中国史書にみえる倭のクニグニ
(1)『漢書』地理志 (2)『後漢書』倭伝 (3)北宋刊本『通典』、唐代の『翰苑』
(4)『魏志』倭人伝
○日本列島史の問題としては、北部九州の地域的連合の成立をもって倭国の成立ととらえるのは適当ではなかろう。やはり日本列島の比較的広い範囲を含む、広域の政治連合の成立をもって「倭国の成立」ととらえるべきであろう。→ 倭国の誕生は、二世紀初頭の「倭国王帥升」の遣使にではなく、三世紀初頭の邪馬台国を中心とする近畿から北部九州に及ぶ広域の政治連合の成立の時点に求めるべきである。(白石先生)

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.文献資料からみた邪馬台国
○『魏書』東夷伝倭人条(魏志倭人伝)

2.古墳の成立と邪馬台国問題
*(右の資料は、西日本における出現期古墳の分布です。)
・古墳時代の前期初頭、すなわち出現期の古墳は、現在のところ畿内地域から瀬戸内海沿岸を経て北部九州に至る各地に前方後円墳、まれに前方後方墳が確認されている。
・箸墓古墳(奈良県桜井市・墳丘長280m)、西殿塚古墳(奈良県天理市・234m)、浦間茶臼山古墳(岡山市・140m)、石塚山古墳(豊前・120m)など ⇒ 画一的な内容をもって各地に営まれる定型化した古墳の出現は、とりもなおさず広域の政治連合の形成を物語る。・・・畿内大和(やまと)の勢力を中心に、ついで吉備の勢力が大きい位置を占め、さらに、北部九州では瀬戸内側の豊前の勢力が吉備につぐ位置を占め、『魏志』倭人伝にみられる玄界灘沿岸の伊都(いと)国・奴(な)国などの勢力は必ずしも大きな位置を占めていたとはいえない。

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3.三角縁神獣鏡の研究
*(三角縁神獣鏡の編年研究で、古墳の出現期の研究が進む)
○最近の研究では、三角縁神獣鏡にも明確な型式差(四段階程度に分類)があり、その年代幅は少なくとも半世紀以上あるものと考えられる。
・第一段階の三角縁神獣鏡は、景初三年(239年)、正始(せいし)元年(240年)という魏の年号銘を持つものが含まれており、その年代を240年前後に求めることが可能である。
・西求女塚古墳(神戸市)…第一・第二段階の三角縁神獣鏡しか持たない古い段階の古墳と、椿井大塚山古墳(京都・山城町)のように第一・第二とともに第三・第四段階を含む新しい古墳があることが明らかになってきた。
古い段階の古墳は、240年前後の第一段階と、おそらくそれに続く250年前後と想定される第二段階の三角縁神獣鏡しかも持たず、それ以降の三角縁神獣鏡を全く含まないので、その造営年代は三世紀の中葉すぎまでさかのぼる可能性がきわめて大きい。⇒定型化した大型前方後円墳の出現年代が三世紀中葉すぎまでさかのぼることになり、すくなくとも西日本の玄界灘沿岸から瀬戸内海沿岸を経て畿内に及ぶ地域では、大和(やまと)の勢力を中核とする広域の政治連合が成立していた事は疑いがない。
・.(注)三角縁神獣鏡は中国から一面も出土していないため、これを日本列島での製作ととみる異説もあって、論争が続いている。

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4.広域の政治連合成立の契機
(1)中国鏡の分布の変化
*(右の資料は、京都大学・岡村秀典氏の作成です。)
・漢鏡4期(紀元前)[.北九州に集中している]→漢鏡5期(一世紀後半)[東方に拡散している。地域間交流が活発化]→漢鏡6期(二世紀前半)[鏡の数が減少する傾向]
漢鏡7期・第一段階(二世紀後半)[九州では退潮するが、九州以東は飛躍的に急増する。]→漢鏡7期・第二段階(三世紀はじめ)[九州以東は第一段階の状態を維持している]
(2)鉄資源の問題
・日本列島では、弥生時代の始めからすでに鉄器時代に入っていた。さらに、弥生時代後期になると、それまでみられた大量の石器が姿を消し、本格的な鉄器の時代に入ったことが推測される。
・『魏志』東夷伝の弁辰(べんしん)の条「国は鉄を出す。韓・濊(わい)・倭みな従いてこれを取る。・・・」(日本列島には、朝鮮半島東南部の弁辰(弁韓)から鉄がもたらされていた。)
・(注)日本列島での鉄鉱石や砂鉄から鉄を精錬する製鉄が、6世紀以前にさかのぼる確実な製鉄遺跡は検出されていない。
***【まとめ 】********************************************************
「鉄資源や先進文物の入手ルートの支配権をめぐる争い」 が、畿内から瀬戸内を経て北部九州に至る広域の政治連合形成の直接的な契機だったとしたら、その時期は?・・・それを考古学的に考える手がかりとなるのが、中国鏡の分布の中心の北部九州から畿内への移動であろう。⇒ (三世紀初頭)
邪馬台国連合の成立
・三世紀初頭ころに、それまで鉄資源やその他の先進的文物の入手ルートの支配権を独占していた玄界灘沿岸地域に対して、瀬戸内海沿岸各地や近畿地方の勢力が同盟を結んでこれと争い、交易ルートの支配権を奪取した出来事があったと想定している。⇒そしてこの争いのための同盟を契機にして成立した広域の政治連合が、いわゆる『魏志』倭人伝にみられる邪馬台国を中心とする29国の連合、すなわち邪馬台国連合にほかならないと考えている。(白石先生)

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5.纏向遺跡の大型建物群
*右図は、黒田龍二氏(神戸大学教授・建築史)の復元図です。
奈良県桜井市立埋蔵文化センターの纏向遺跡第162次調査(H21年2月〜3月)は、昭和53年(第20次調査)で検出された柵に囲まれた建物(SB-101)などを再確認するとともに、それらの遺構群の広がりを調査する目的で実施
・現地説明会(H21年3月20日)は、各マスメディアで「邪馬台国」や「卑弥呼」との関連が報道され、延べ2500人以上の参加者
・宮殿とみられる大型建物群が発見された。
・三世紀前半の初期ヤマト王権の中枢施設とみられる。
・邪馬台国畿内説に有力な建物群か・・・現在も調査発掘が続けられています。