『古代の難波と難波宮』

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全14講義)の第10回講義の報告です。
・日時:12月4日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「古代の難波と難波宮」 (第2回)
・講師:中尾 芳治先生(元帝塚山学院大学教授)
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*復習[前回:H24年5月8日(火)「古代の難波と難波宮」(第1回)]
古事記・日本書紀・万葉集に見る難波宮
・仁徳天皇と難波高津宮
・孝徳天皇と「難波長柄豊碕宮」→大化改新と難波遷都(645年)
(難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)は、652年完成)
・天武天皇の複都制と「天武朝難波宮」(天武12年(683)複都制の詔)
・「難波宮全焼」(朱鳥元年(686))
・聖武天皇の難波宮再興「奈良朝難波宮」(天平16年(744)難波京を皇都)
・桓武天皇の長岡京遷都(延暦3年(784)難波宮を長岡京に移築)
難波宮跡の発掘
・長い間、難波宮の所在地が不明であった。→1954年(昭和29)、山根徳太郎氏(1889〜1973)(考古学者)を中心に発掘開始、現在に至る。

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.難波宮には前期と後期の二つがある
・前期難波宮(飛鳥時代)…孝徳朝(596〜654年)、天武朝(在位673〜686年)
・後期難波宮(奈良時代)…聖武朝
2.前期難波宮跡は孝徳朝の「難波長柄豊碕宮」
(1)難波長柄豊碕宮説の根拠(これまでの発掘調査と文献史料) (中尾先生)
・前期難波宮の整地層内や難波宮下層遺跡(前期難波宮以前)の遺構にともなう土器が手がかりとなる。→前期難波宮の整地の年代を「7世紀中葉」と推定。
・白雉五年(654)孝徳天皇が崩じて以後、朱鳥元年(686)に焼亡するまでの間に、長柄豊碕宮が造り替えられた徴候は『紀』に認められない
・天武朝説→前期難波宮は686年に焼失しているから、せいぜいさかのぼれるのは20年前の660年くらいで、とても孝徳朝までさかのぼれない。…20年に一度の式年遷宮は建物の耐用年数ではなく、神社が美観を損なわないで機能を持たせるのには最高どのくらいかということで、20年になったので、20年前以上にさかのぼれる。
・難波長柄豊碕宮という宮号は、上町台地の先端部を美称した地名に由来するが、前期難波宮跡はその宮号にふさわしい地形に立地している。

以上のようないくつかの理由を総合して考えると、孝徳朝の難波長柄豊碕宮が天武朝まで存続していたのを一部改修して再利用したもので、それが朱鳥元年の火災で焼亡あいたもので、前期難波宮の内裏・朝堂院など遺構全体が孝徳朝にさかのぼりうる可能性はきわめて高い。

(2)土器資料と木簡の出土(右の資料を参照)
・前期難波宮整地層出土土器…年代は7世紀中葉
・木簡の出土… 「戊申年」(648年)の木簡出土

●前期難波宮は孝徳朝?−「難波宮=孝徳時代にちょっと待った」(読売新聞 H24.9.13の掲載記事)
・白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)…“須恵器研究から整地されたのは、660年以降であり、652年の完成はありえない”。
・西川寿勝氏(大阪府教委)…“孝徳天皇が造営したのは内裏前殿の区画だけで、内裏や朝堂院は天武期に拡張された”。

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*次回、第3回は「現地見学」です。
・日時:2013年4月19日(金) 午後1時〜4時 (少雨決行)
・現地見学:「難波宮跡と大阪歴史博物館」
・講師:中尾 芳治先生(元帝塚山学院大学教授)
(上記は予定です。実施日の約1ヶ月前に詳細を連絡します。)