『奥州・藤原氏と平泉文化』

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全14講義)の第11回講義の報告です。
・月日:12月11日(火)am10時10分〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「奥州・藤原氏」
・講師:若井 敏明先生(関西大学非常勤講師)
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[奥州関係年表]
・658〜660年:阿倍比羅夫の蝦夷征伐
・712年:出羽国の設置
・724年:多賀城(宮城県)築城。陸奥国府と鎮守府を置く
・797年:坂上田村麻呂、征夷大将軍となり蝦夷征伐
・802年:胆沢城(いさわじょう)(岩手県)を築城
↓(俘囚の長が実効支配)
・1051〜1062年:前九年の役
・1083〜1087年:後三年の役

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1.平安時代後期の東北地方
・9世紀初め坂上田村麻呂の遠征後、蝦夷(えみし)に自治権を認めた政策により陸奥には100年以上の平穏が続いた。
-現地豪族(俘囚(ふしゅう)の長)(大和朝廷に従う)…形だけは国司がいるが、実質的には俘囚の長が実効支配
・その代表が陸奥の安倍氏出羽の清原氏であった。
2.前九年の役・後三年の役
前九年の役(1051〜1062年)
・安倍氏は「六箇郡の司」と称せられ、年貢も納めず、夫役も勤めないというのが合戦の発端。
・国司・藤原登任(なりとう)、安倍頼良(よりよし)を攻撃したが、大敗。→ 源頼義(よりよし)を派遣→ 源頼義・義家父子と清原武則の連合軍が安倍氏(貞任)を破る。
・恩賞として源頼義は伊予守、義家は出羽守、清原武則は鎮守府将軍。
後三年の役(1083〜1087年)
・前九年の役の鎮圧に貢献があった清原氏は、安倍氏に代わり東北を支配するが、内紛が起こる。→この内紛を源義家の助けを借りて制したのが清原清衡で、清衡は父の姓を復活させ藤原とした。
・朝廷からは私戦「義家合戦」とみなされ、恩賞もなく、義家が私財で武士達への褒章とした。→この両役を通して源氏は東国武士団の郎党化に成功した。

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3.奥州藤原氏とその仏教文化
○初代・清衡−中尊寺の建立、二代・基衡−毛越寺、三代・秀衡−無量光院 (平泉三代 99年間)
『吾妻鏡』文治五年(1190)の「関山中尊寺の事」 (右の資料を参照)。
「・・・清衡、六郡を管領するの最初に、之を草創す。白河関より、外が浜に至るまで、二十余日の行程なり、その路一町ごとに、笠卒塔婆を立て・・・、当国の中心を計りて、山の頂上に一基の塔を立つ・・・」
清衡(きよひら)は、[白河関]から[外が浜(青森の先端)]の奥大道の中心に大寺院(中尊寺)を創建した(寺塔40、坊舎300にものぼる建物群)。
基衡(もとひら)は、京都の法勝寺を模した広大な毛越寺(もうつうじ)を、秀衡(ひでひら)は、宇治平等院にならった無量光院(むりょうこういん)を創建した。
・陸奥の産金を経済的基盤として財力を蓄え、その規模は壮大であった。

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*【中尊寺供養願文】(右の資料を参照)
「・・・苦しみを抜きて、楽を与うること、あまねく皆平等なり。官軍と夷虜の死する事、古来幾多なり。精魂は皆他方の界に去り、朽骨はなお此土の塵となる。鐘の声の地を動かす毎に、冤霊をして、浄殺に導かしめん。」
中尊寺の造立の趣旨は、“敵味方の亡魂を往生せしむる”と願文(がんもん)に記されている。→この願文が、ユネスコ世界遺産になった要因の一つにあげられている。

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3.奥州藤原氏の滅亡
・「義経と奥州藤原氏」…平氏追討に功のあった義経が、専断のことが多かったり、頼朝の許可を得ずに勝手に任官したりしたため、頼朝の怒りを買って鎌倉入りを拒絶。裏で、後白河は、頼朝と義経の不和を煽るようにしていた。(源氏一族の内部対立を利用して、頼朝の権力の拡大を防ぐための方策)。→ 失脚した義経は、奥州平泉の藤原秀衡の保護を受ける→ 秀衡の死後、その息子・泰衡(やすひら)は頼朝の圧力に耐えかねて、衣川館(ころもがわのたて)で義経を殺害(1189年)。
・「頼朝、自ら軍を率いて奥州征伐」…・3代100年にわたった藤原王国も、4代目泰衡のとき、源頼朝軍に敗れて崩壊した。(1189年9月、頼朝、奥州平定)
・1192年:鎌倉幕府の成立(頼朝、征夷大将軍となる)