近代短歌 〜正岡子規と与謝野鉄幹〜

(%紫点%) 後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全11講義)の第10回講義の報告です。
・日時:H25年1月17日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:近代短歌〜正岡子規と与謝野鉄幹〜
・講師:宮本 正章先生(元四天王寺大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(%エンピツ%) 講義の内容
明治時代に入っても、和歌は『古今集』を手本とした桂園派(御歌所派)が中心であったが、落合直文(国文学者・歌人)は、短歌革新論を最初に実践し、『あさ香社』を結成(明治26年)。主観を重視する浪漫的な短歌を目指した。
与謝野鉄幹[1873(明治6)〜1935(昭和10)]は、落合直文に師事し、明治33年に新誌社の機関紙『明星』を創刊。妻晶子とともに、明治浪漫主義に新時代を開き、北原白秋、吉井勇、石川啄木らを輩出。
・鉄幹は、『亡国の音(おん)』を連載し、旧派の短歌を《古人に模倣する也模倣すの巧拙を争ふ也》と痛烈に批判し、自分の心情から発した短歌の革新を提唱。
★鉄幹の短歌は、当初、“丈夫ぶり”(男らしい)歌であったが、一時は否定していた“手弱女ぶり”へ移行し、恋の歌などを詠むようになる
☆韓(から)にして いかでか死なむ われ死なば おのこの歌ぞ また廃れなむ」(明治29年)
☆(人を恋ふる歌)「妻をめとらば才たけて/顔うるわしくなさけある/友をえらばば書を読んで/六分の侠気四分の熱(以下略)」( 明治30年京城に於て作る)
☆「恋と名と いづれおもきを まよひ初めぬ 我年ここに 二十八の秋」(明治34年)
☆「大空の 塵とはいかが 思ふべき 熱き涙の ながるるものを」(明治43年)
・森鴎外は、鉄幹の短歌革新を高く評価しています。
・鉄幹は、晶子と結婚後、晶子の短歌は人気を博したが、鉄幹の短歌はスランプに陥る。

・・・
正岡子規[1867(慶応3)〜1902年(明治35)]の短歌革新は、比較的晩年に至ってからだった。俳句革新を達成した後に、明治31年、『歌よみに与ふる書』を新聞に連載し、〈貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候〉とこきおろし、写生連作万葉集の復活を提唱。根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめる。(根岸短歌会は伊藤左千夫・長塚節らにより短歌結社「アララギ」へと発展していく。
★子規の短歌は、歌集『竹乃里歌』に記され、補遺をあわせて2400首
☆「いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春ゆかんとす」
☆「冬ごもる 病の床の ガラス戸の 曇りぬぐへば 足袋干せる見ゆ」
☆「瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たたみの上に とどかざりけり」
☆「若人の すなる遊びは さはにあれど ベースボールに 如く者もあらじ」
・子規は、鉄幹より少し遅れて短歌革新を提唱した。それを残念がって「…空しく鉄幹に先鞭を着けられたるを恨む」(「東西南北」序・明治29年)