『豊臣政権と大坂の陣』

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全14講義)の第13回講義の報告です。
・日時:H25年1月22日(火)am10:15〜12:30
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「豊臣政権と大坂の陣」
・講師:笠谷和比古(かさや かずひこ)先生(国際日本文化研究センタ−教授)
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[関係年表]
・1598年(慶長3):秀吉、死す(享年62)
・1600年(慶長5):関ヶ原の戦い
・1603年(慶長8):徳川家康、征夷大将軍
・1605年(慶長10):家康は秀忠に将軍職を譲る
・1611年(慶長16):秀頼・家康、二条城の会見
・1614年(慶長19):方広寺鐘銘事件、大坂冬の陣(10月〜12月)
・1615年(慶長20):大坂夏の陣(5月)

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.関ヶ原合戦後における領地分配とその地政学的状況
*右の「関ヶ原戦後の大名配置図」をご覧ください。
・戦後処理の領地配分で豊臣系諸大名は躍進。西軍よりの没収高632万石の80%強の520万石余が豊臣大名に配分。西国方面は、徳川勢力は、全くといっていいいほど存在していない。⇔《関ヶ原合戦は、家康の率いる東軍の勝利に終わったが、それは必ずしも徳川の勝利ではない。徳川秀忠の率いる徳川主力軍が遅参して、東軍の主力勢力が、家康に同盟した反石田三成の武功派豊臣系武将たちの兵力で構成されていた。》
・西国方面は、大坂城にある秀頼と豊臣家に委ねられ、家康はそれを通して間接的にこの地域を支配。
・(注)日本列島の政治支配は、18世紀初めまで、東国・西国の二元体制をとっている。
【「鎌倉時代」は、東国の政権であり、畿内・西国は朝廷の支配下。「室町幕府」は、政権の中心を京都に据えたが、鎌倉に関東公方(くぼう)を派遣して東国を支配。「関白秀吉」は、東国方面は家康に委任する。】
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2.豊臣秀頼の地位と二重公儀体制
*慶長8年(1603)2月、伏見城で徳川家康の将軍就任から、慶長20年の大坂の陣での豊臣氏の滅亡までの期間は、二重公儀の時代。
①「秀頼は家康に拮抗する政治勢力」
・秀忠の娘・千姫、秀頼との婚姻⇔徳川・豊臣を血縁的に融合一体化
・徳川幕府開設以後も、加藤・福島ら豊臣系諸大名、上杉・島津・前田らの外様大名まで、大坂城・秀頼の下に伺候。
・朝廷の年頭慶賀の勅使は、江戸城でなく大坂城へ
○「関ヶ原合戦後、豊臣家の領地は摂津・河内・和泉の60万石の一大名の地位に転落した」という通説 → (新見解/笠谷先生)秀頼の3カ国60万石は直轄領。秀頼家臣団の知行所は、伊勢・備中国など西国一帯に広く分布。
○「秀頼が二条城に呼びつけられ家康に臣従を余儀なくされた」という通説 → (新見解/笠谷先生)家康は秀頼に対して庭上まで出迎えるという所作をとるなど、最高の礼遇で迎えている。
②「二公儀体制の矛盾」
・二公儀体制は、豊臣・徳川の共存・共栄を図る構想であり、東西分治の棲み分けによる共存戦略。⇒しかし、この政治体制が安定的に運営されているのは、家康というカリスマがあってのこと。・・・家康が亡くなった時のことを考えてみると、“秀頼を頂点とする豊臣関白政権が復活する可能性が大きい”。(豊臣系諸大名は、徳川家を慕って臣従しているのではない。家康亡きあと、秀忠につき従わなければならない義理なぞ、どこにもない)

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3.大坂の陣
①慶長16年の二条城会見から同19年の大坂の陣勃発に至る4年間…豊臣恩顧の大名の死去
・慶長16年…加藤清正没(二条城会見、3ヵ月後に熊本で急死)
・慶長18年…池田輝政没、浅野幸長没
・慶長19年…前田利長没(5月)
○「方広寺鐘銘事件」(慶長19年7月)
・”徳川家が仕組んだ捏造”という通説は的はずれである。→ (新見解/笠谷先生)“「国家安康」「君臣豊楽」という8文字について、撰文者である清韓は、「家康」という文字を用いた事はあくまで祝意であって呪詛のごとき企てにあらずと弁明。…しかし、家康と徳川方からしてみれば、この事態が好機到来というのも紛れもない事実であった。→鐘銘問題の交渉(片桐且元に対して、家康面会拒否。片桐の三条件)。…豊臣氏が片桐を家康と内通していると追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告。
①大坂冬の陣(慶長19年10月〜12月)
・10月1日 片桐且元、大坂城退去。茨木城に籠城。
・10月2日 家康、東海・西国諸大名に出陣命令
・徳川軍は、木津川口・今野・鴫野・博労淵などの局地戦で勝利したが、真田丸の攻防では大敗。大砲を放たせて砲撃戦でゆさぶり。
【和議】
○「徳川方は、だまし討ちで内堀を強行的に埋め立てた」という通説→(新見解/笠谷先生)「惣構の周囲をめぐる外堀ならず、二の丸、三の丸の内堀を埋め立てることは、豊臣方も諒解していた当初からの和議条件であった。」
大坂夏の陣(慶長20年5月)
・和議の破綻(秀頼の大坂城からの退去問題)
・家康と秀忠の出陣:5月5日…家康・秀忠、河内口より出陣
道明寺の戦い:5月6日 小松山の戦い、石川の戦い、誉田陵の戦い、若江・八尾の戦い、大坂城の決戦(5月7日).

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*まとめ*
・旧来の学説=「関ヶ原合戦をもって徳川幕府260年の磐石の礎を築いた」→(新見解/笠谷先生)「関ヶ原合戦が徳川と家康に与えたものは磐石の統治力ではなくて、劣弱な支配領域でしかなかった。最大の課題が西国問題であり、これは対豊臣問題と密接な関係にあった。豊臣関白家と徳川将軍家とは相互対等の関係にあり、家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼすまで、その対策に苦心する。

(参考文献)
『関ヶ原合戦と大坂の陣』 笠谷和比古著(吉川弘文館『戦争の日本史17』)