『鎌倉幕府の成立』

(%緑点%) 2013年「前期講座(歴史コース)」(3月〜7月:全15回講義)の第1回講義の報告です。
・日時:平成25年3月5日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:『鎌倉幕府の成立』
・講師:若井 敏明先生(関西大学非常勤講師)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.治承・寿永の内乱と鎌倉幕府
(1)1180年(治承四)源頼朝の挙兵
(4月)以仁王の平氏追討の令旨…(5月)以仁王・源頼政ら挙兵、敗死 …(6月)福原遷都… (8月)源頼朝挙兵、初の合戦・石橋山の戦い。頼朝軍は平氏方の大庭景親らに敗北… (10月)頼朝鎌倉に入る富士川の戦い−平維盛(これもり)の追討軍は、水鳥が集団で飛び立つ羽音を、敵襲と間違えたと言われ、京へ逃げ帰る。…ここで逃げる敵を追って、京を目指すかどうかは頼朝にとって、一つの岐路であった。→ 頼朝は上京を断念して関東経営に専念・・・「頼朝は、平維盛を追い攻めんと上洛を命じたが、御家人(頼朝の臣従者)−千葉氏・三浦氏・上総氏等−は、東国には常陸国の佐竹をはじめとして、まだ帰伏しない勢力も多いから、まず東国を平定した後に、関西に至るべしと引き留めた。」
○源頼朝は、1183年頃までは、東国武士の意向で、西日本には関与しないで東国国家の支配権の拡大していく。・・・西日本には、頼朝の異母弟義経・範頼を派遣。
(2)頼朝を取り巻く情勢
木曾義仲=1180年に挙兵。1183年(寿永二)(5月)倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い−平維盛の追討軍は大敗し、京都に逃げ帰る。→(7月)義仲入京。…平家は、六歳の安徳天皇と三種の神器を伴って都落ち。…1184年(寿永三)(1月)義仲、源義経軍と戦い、近江で敗死。
・1180年(11月)常陸の国佐竹氏征伐
・甲斐源氏・武田信義
(3)1185年(寿永四=文治元)(3月)、義経らの率いる源氏軍が壇の浦で平氏を撃滅して、治承・寿永の内乱は幕を閉じた。・・・奥州征伐・1189年(文治五)。

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2.鎌倉幕府成立の諸説
①1180年説・・・源頼朝が鎌倉に入り、侍所(さむらいどころ)を設置
②1183年説・・・頼朝が朝廷から東国支配を承認される
③1184年説・・・公文所(くもんじょ)・問注所(もんちゅうじょ)の設置
④1185年説・・・守護・地頭の設置
⑤1190年説・・・頼朝上洛。右近衛大将に任命
⑥1192年説・・・頼朝、征夷大将軍に任命

・三つの見方…①②③は、東国における支配権を中心に考える立場。④は西国を含んだ支配権に注目する立場。⑤⑥は「幕府」という言葉の語源にこだわる立場(頼朝が右近衛大将あるいは征夷大将軍に任命された時をもって幕府は出発するという考え)。
○かつての通説-“いい国(1192)作ろう鎌倉幕府”と覚えた1192年説は、現在では少数意見。有力な説は1185年である。1185年は、頼朝が朝廷から諸国の守護・地頭を設置し、荘園・公領を問わず段別五升の兵糧米を徴収する権利を認められた。(*右上の『吾妻鏡』を参照)
*[問題点あり]・・・・「守護・地頭の補人(ぶにん)」という文言は、後代の編纂した歴史書である『吾妻鏡』しか載っておらず、同時代の史料である『玉葉』(右大臣・九条兼実の日記)には、その記載がない。

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3.鎌倉幕府の性格
「東国政権」と「朝廷の軍事警察権の分担者」
・主に東国の武士階級の利害を代表する政権
・総追捕使と地頭→守護と地頭
*「袖判下文と政所下文」(右の資料(頼朝袖判下文(右)・政所下文(左))
・建久三年(1192)、源頼朝は征夷大将軍に任命。これを機に、主だった御家人に対して「将軍家政所下文(くだしぶみ)」が下された。
・「政所下文(左)というのは事務組織からの通達であり複数の花押があるが、頼朝の名が無い。」→御家人の要求「頼朝自身の御判を据えたものを頂いて、子々孫々まで伝えたい」に対して、袖(そで−文書の書き出しの側)に花押を据えた下文(右)を与えた。
・花押を据えることによって、主従制における紐帯を深める文書形式は、武家政権によって新しく生み出されたものである。