『壬申の乱と高市皇子』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)の第4回講義の報告です。
・日時:4月2日(火)am10時〜12時15分
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「壬申の乱と高市皇子」
・講師:和田 萃(わだ あつむ)先生(京都教育大学名誉教授)
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*「壬申の乱」(じんしんのらん)
・壬申の乱は672年6月24日に勃発し、7月23日に天智天皇の子、大友皇子が自尽したことによって終焉した古代最大の内乱であり、大海人皇子(後の天武天皇)が勝利したことで、天武朝による本格的な律令国家体制が成立する。
・壬申の乱については、 『日本書紀』巻二十八に詳しいが、記述は複雑でわかりにくい。大海人皇子軍の動きは、従軍した舎人たちの日記をもとに日を追って記述されており、克明である。一方、近江朝廷側の動向は、日を明確に示さずに、それも一括して記されている。
*「高市皇子」(たけちのみこ)(654〜696年)
・天武天皇の長子で壬申の乱での英雄。母は、胸形君徳善の娘である尼子媛。←胸形君(むなかた・宗像君)氏は福岡県宗像郡を本拠とする豪族。
・高市皇子の皇位継承の序列は、長男であるが第8位。(母親の身分により序列)。

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(%エンピツ%) 講義の内容
○『日本書紀』巻二十八を読む
*【天智天皇は病床に、大海人皇子をよんだ
・大海人が枕もとに行くと、天智は「後事は全てお前に託したい」と持ちかけてきた。大海人は、「大友皇子を皇太子に推挙し、自ら出家を申し出て」、吉野宮に下った。
・近江宮で、天智天皇崩御(671年12月3日)。大友皇子が後を継ぐ。
*【大海人皇子、吉野を出て美濃をめざす】*(右の資料を参照)
・(大海人に、近江朝廷側の不穏な動きの知らせが入る)
・672年6月22日、大海人は、村国男依(むらくにのおより)ら三人を美濃に行かせ、兵士を集め、「すみやかに不破の道を塞げ」と命じた。→この作戦は、のちに乱の帰趨を決する重要な意味を持つ。
・二日後の6月24日、高市皇子と大津皇子の二人は大津宮にいたので、密使をやって脱出させることにし、大海人皇子は、鵜野皇女(のちの持統天皇)、草壁・忍壁皇子や舎人二十余人、女官十余人だけ引きつれて、まず、伊勢にむかう。→ 夜通し行軍を続けた一行は、夜明けを迎え、しばし休憩して食事を取る。積植(つむえ)まで来たところで、大津宮を脱出した高市皇子と合流する。→25日は、伊勢の川曲(かわわ)の坂本まできて日が暮れた。二日間の強行軍で鵜野皇女疲れきっていたの、ここで休息する。→ 26日の朝、大海人は川のほとりで、伊勢神宮の方角を向き、天照大神を遥拝し、戦勝祈願。そこへ、大津皇子が従者とともに到着した。

*【高市皇子に全軍の指揮】(右の資料を参照)
・26日、「臣高市、神祇の霊により、天皇の命を請けて、諸将を引率て征討たむ。」
《高市皇子は、神々の霊威をこうむり、天皇の命令を受けて軍を率い、近江朝廷を討伐します。…大海人は喜び、高市の手を取って激励し、軍事の全権を委任。》
・時に高市皇子19歳、指揮を任されて勝利を導いた。

柿本人万麿の高市皇子挽歌
『万葉集』(巻第二の199) 「高市皇子尊の城上の殯宮の時に 柿本朝臣人麻呂が作る歌一首」
(抜粋)「やすみしし わご大王の きこしめす… 不破山越えて … 行宮(かりみや)に 天の下 治め給ひ…吾妻の国の 御軍士を 召し給ひて ちはやぶる 人を和せと 服従はぬ 国を治めと.皇子ながら 任け給へば 大御身に 太刀取り帯ばし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 斉ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き響せる」
(天武が不破山を越えて、行宮におでましになり、天下を平定なさろうと、東の国々の軍勢を集めて、荒れ狂るう者どもを鎮めよ、従わぬ国を治めよと、皇子であるがゆえにお任せになったので、わが皇子は太刀をつけ、御手に弓をとり軍勢を統率された。その軍勢を整える鼓の音は雷(いかずち)の声かと思われるほど)
・柿本人麻呂の高市皇子を悼む挽歌は、『万葉集』で最も長く、雄姿を詠った歌として有名です。

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*あとがき*
1.『日本書紀』で、とびぬけておもしろいのが、巻二十八(巻二十八は壬申紀とも呼ばれている)。(和田先生)
・(注)『日本書紀』の編纂の最高責任者は、天武天皇の子であった舎人(とねり)親王であり、壬申紀で父である天武の立場を正当化している可能性が大きい。、
2.今日の講義は、『日本書紀』巻二十八を読みながら、大海人皇子が吉野を出て美濃に入るまでの動きを追いました。
・大海人皇子は、乱が終結するまで野上(美濃)を離れていない。
・軍事の全権は高市皇子に委された。⇔乱に勝利した高市皇子の功績は大きい。
・壬申の乱の帰趨を決したのは、25日の夕刻までに大海人皇子側が、先に不破の道を塞ぐことに成功したことである。
・当初わずか数十名で吉野をたった大海人が近江朝を打倒したことは、彼を英雄として神格化することになった。
3.天智天皇が病に臥せって、枕もとに大海人皇子を呼んだ。そのとき、蘇我安麻侶が大海人に「充分気をつけてお答えください」と忠告した。天智天皇は、乙巳の変と言われるクーデターを起こした中大兄皇子。幾多の政敵を死に追いやった人物。ここは用心が肝要ということで、大海人皇子は、大友皇子を皇太子に推挙し、自ら出家を申し出て、吉野に下った。(もし、王位を受けていたらすぐに殺されていたかも知れない。)
・大海人皇子は天智天皇の同母弟で、皇位継承者として有力視され、「皇太弟」ともよばれていいた。天皇に有力な弟がいる場合、その弟が兄の後を継ぐというのが当時の慣例。
4.額田王をめぐる不和
・天智と大海人の兄弟には、「額田王」をめぐる確執があったとされている。