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2011年の元旦の朝は、新年らしく雪の舞い踊るなか、
外村神社の正月祀りが行なわれました。
外村神社は古来より信仰されている、殿(朝来市)の集落の産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)で、生まれた土地を領有、守護する神です。
産土神は、本貫(先祖の発祥地)に祀られている神。単に産土とも言いますが。
日本人の郷土意識と強く結びついた信仰であり。もとは氏神や鎮守神とは別の性格を持っていたものと思われますが、近世以降は同一視されているようです。
氏神、氏子の関係が血縁集団を基にして成立しているのに対して、産土神は地縁集団としての信仰意識に基づいていて。
ようするに、山城げんき村の氏神(うじがみ)様でもあるわけです。
ちなみに外村神社と書きまして、「とのむらじんじゃ」と呼びます。
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宗教法人神社本庁によると、「そとむらじんじゃ」となっていますが、
それは日本がポツダム宣言の受諾を1945年(昭和20年)8月10日に申し出て降伏し。連合国の占領下におかれた連合国軍最高司令官総司令部に同年12月15日、国家と神道勢力が結合する戦前の政体はアメリカが目指す自由理念、民主理念に反するものであるとして神道指令を発し、神社を国家から分離することを命じられて、皇典講究所、大日本神祇会、神宮奉斎会の3団体が中心となり、全国の神社の総意にもとづいて内務省の外局である神祇院の業務を引き継ぐ形で神社本庁が設立され、戦前に国家機関であった神祇院の後継的な性格を有するが、現在では宗教法人法にもとづく包括宗教法人の一つとして位置付けられた時に、混乱したまま記録されたようです。
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それ以前の明治時代に、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した、太政官布告「神仏分離令」、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された、詔書「大教宣布」などの政策によって、日本全国で引き起こされた仏教施設の破壊などの廃仏毀釈運動の影響もあり、定かではありませんが、外村神社は戦国時代から明治維新までは、妙見菩薩信仰に加持祈祷する妙見宮とも呼ばれていたようです。
当時の神仏分離令や大教宣布は、神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまい。神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われました。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施したために混乱し。明治4年(1871年)ごろ終熄したが、影響は大きかったようです。
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かなり昔からの多様性の豊かな、幾つも宗教が、外村神社では祀られていたようで、古来から信仰を集めている熊野神社や稲荷神社などの祠(ほこら)が残っています。
右の画像は、但馬では眼の病気に、ご利益のあると言われている、青倉神社の小さな祭壇になります。
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外村神社の祭事は、地区の宮当番が順番に、祭礼を受け渡しを行なっており、はじまりはハッキリとしませんが、現在も引き継いでいます。