_山城げんき村 竹田城跡 それから但馬エリア 埋蔵金銀 伝承

竹田城跡の埋蔵金

【埋蔵額】=?
【埋蔵者】=太田垣氏
【埋蔵時期】=永禄・元亀・天正 年間
【埋蔵地】=朝来市和田山町

【背景】=竹田城跡の金銀か宝を隠した場所か、水源や水のある 場所を、暗号としてに伝えたものといわれています。但馬・竹田城のあった古城山か、尾根づたいの大路山が、可能性があると思われます。

大路山にあった、香華院千眼寺砦遺跡との伝承も。

「黄金千両 銀千両
城の周りを七周り
また七周り七戻り
三つ葉うつぎのその下の
六三が宿の下にある」

の言い伝える歌がある。

国土地理院 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名:
但馬竹田(姫路) (中心位置の図葉名)

轟城(青葉城)の埋蔵金

【埋蔵額】=?
【埋蔵者】=恒屋氏
【埋蔵時期】=天正 年間
【埋蔵地】=豊岡市竹野町轟、森

【背景】=竹野町字城山にはかつて恒屋氏の轟城(青葉城)があったが、その恒屋氏が秀吉軍と水生城で戦い破れたとき、城守たちが財宝を埋蔵して逃げたという。

「朝ひ夕ひ、
七ひさす、
おなだかもりの下に
黄金の鶏を埋める。
節分の夜、
子の刻にこの鶏は一声鳴く」

の言い伝えがある。

国土地理院 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名:
城崎(鳥取) (中心位置の図葉名)

安田家の埋蔵金

【埋蔵額】=純金の十三羽の鶏
【埋蔵者】=安田家
【埋蔵時期】=元亀・天正・文禄? 年間
【埋蔵地】=美方郡香美町香住区安木

【背景】=香住区奥安木の安田家に伝わる埋蔵金伝説。先祖の奥安木城主安木和泉守が秀吉の山陰攻めの時に落城させられ、その時に埋蔵したと伝えられる。

「朝日さし
夕日輝く
竹の元」


黄金の鶏十三羽。

の言い伝えがある。

国土地理院 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名:
香住(鳥取) (中心位置の図葉名)

生野銀山の埋蔵金

【埋蔵額】=?
【埋蔵者】=豊臣秀吉
【埋蔵時期】=天正・文禄・慶長? 年間
【埋蔵地】=朝来市生野町

【背景】=生野町の一ノ谷の生野銀山に、勘定奉行幡野三郎を使って、多田銀山と同様に、軍資金を埋めさせたという。

の言い伝えがある。

国土地理院 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名:
新井(姫路) (中心位置の図葉名)

ちなみに、

多田銀山の埋蔵金(兵庫県)

【埋蔵額】=四億五千万両
【埋蔵者】=豊臣秀吉
【埋蔵時期】=慶長年間
【埋蔵地】=川辺郡猪名川町

【背景】=二度目の朝鮮出兵の後病に倒れた秀吉が、豊臣家の将来を案じ大阪城内の金蔵にあった四億五千万両を、多田銀山に埋蔵したと伝えられている。
源氏の祖、多田満仲が開いたという歴史を持つ多田銀山。源氏を潤し、そして秀吉も黄金の千成り瓢箪に代表される富の裏付けとなった優良鉱山多田銀山をそのころ突然閉山し、坑道の奥深く瓢箪間歩に巨万の富を埋めたのだと伝えられる。
実際の監督に当たったのは金山奉行幡野三郎光照と帰化人技術者、今川賀蔵(民振竜)で、一部は大阪冬、夏の陣で消費されたが大半は残されたままで、後に幡野の遺書などにより、埋蔵金の事実が知れ渡り、その額の多さと数々の「秘文書」の存在などにより、一躍注目の的となった。
八門遁甲によって隠された埋蔵金を説くカギとなる秘文書は「幡野三郎光照遺書」光照の子の「和田二郎光盛文書」そして振竜の「水抜き秘法」そして、淀君に預けられた肝心の「清水心竜之巻」と絵図三葉と語られている。