先日、阪急嵐山駅から化野の念仏寺までゆっくり歩きました。有名な竹林や野々宮神社、常寂光寺、祇王寺経由です。めちゃくちゃポピュラーなルートですし、最近の京都はいつ行っても人が多いのですが、天候がもう一つだったせいか、その日はわりと空いていました。
空海が無縁仏のために建てた念仏寺の、お盆の期間にはそのすべてに蝋燭が灯される八千体の石仏の中で、「無縁仏ってどんな仏様?そもそも縁って何?縁の有無ってどこがどう違うの?」そんなとりとめのないことを考えました。いつもと同じで答えがあるわけではありませんが。
メモをしてこなかったので、はなはだ不正確で申し訳ないのですが、念仏寺にこんな文が書かれていたと記憶しています。
「子供は自分の来し方、年寄は、自分の行末」
「無知や生意気と傲慢や衰えは誰にでもあること。自分だけが特別なわけは無い」
「同時に同じ場所に生きているだけで縁がある」
こんな意味じゃないかなと考えました。
でも今はむしろ、来し方を先祖、行末を子孫と考えて、「縁は命、命とは延々(縁々)とつながっている大切なもの」と考えるべきかなとも思っています。
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