「東海道五十三次歩き旅」 大阪府箕面市 喜多 美波(仮名・70歳)

(写真は足柄峠からの富士山・神奈川県南足柄市)——>
2010年2月15日
「東海道五十三次 歩き旅」
大阪府箕面市
喜多 美波(仮名・70歳)

◆はじめに
 今回は、『東海道五十三次』を歩いた。少年時代から野山を歩くことは好きだった。定年後しばらく勤めていたが、六十八歳で辞めた。その後、図書館通いをしている時に目にした、「平成の伊能忠敬・ニッポンを歩こう 二十一世紀への100万人ウオーク」なる本に触発された。(約二〇〇年前、日本の実測地図作りに挑戦した伊能忠敬の足跡をたどり、二年間(五七四日)にわたり日本一周、約一万kmを歩いた壮大なイベントの記録)

 この本を読み終えた後、潜んでいたDNAが騒ぎだし、古希の思い出に、故郷「下関」まで歩くことを思い立った。以後、脚力強化のため、箕面市内の「歩こう会」に毎月参加した。大阪市内を歩き、さらに本番のつもりで京都や奈良にも歩いて行った。その後、毎年気の向くままに、「長距離歩き旅」を楽しんでいる。

●二〇〇六年 箕面〜下関 十九日間 約八四八、六〇〇歩(約六二〇km)
●二〇〇七年 琵琶湖一周 八日間 約二九二、八〇〇歩(約二一〇km)
●二〇〇八年 淡路島一周 六日間 約二〇六、六〇〇歩(約一五〇km)
●二〇〇九年 東海道五十三次 十九日間 約七一七、二〇〇歩(約五〇三km)

 今回の、「東海道五十三次 歩き旅」について、以下簡単に記述する。
【行程】
 全行程を四ステージに分け、各ステージを五日間の予定で、東京・日本橋から京都・三条大橋まで歩いた。江戸時代に五街道の一つとして、日本で最初に整備された街道で、弥次さん喜多さんでお馴染みの道をのんびりと歩いた。公称距離は四九二km。昔の単位で一二六里六丁一間。

◆【第一ステージ】
 ・三月八日〜十二日(五日間) 日本橋〜三島 一七〇、三〇〇歩(約一二〇km)
 ・通過宿場=品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、三島

 東京・日本橋の道路中央部に埋められている、「日本国道路元標」を踏みしめて出発。この区間には、泉岳寺や権太坂などがあるが、特筆すべきは箱根の峠越えであろう。猿も滑るという「猿滑り坂」、旅の男が苦しくなってドングリほどの涙をこぼしたという「橿木坂」など、急坂や長い階段が続く。涙は出なかったが、本当にしんどい。また、江戸時代に造られたという石畳の道も残されている。峠を越えると芦ノ湖に着く。

◆【第二ステージ】
 ・四月二日〜六日(五日間) 三島〜磐田 一九六、九〇〇歩(約一三八km)
 ・通過宿場=沼津、原、吉原、蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子、
・・・・・・・・・・・・岡部、藤枝、島田、金谷、日坂、掛川、袋井、見附

 この区間は富士山の美しさを堪能させてくれる。往時の宿場の雰囲気を色濃く残す蒲原宿や日坂宿があり、安倍川餅の老舗「石部屋」、とろろ汁で有名な「丁子屋」もある。しかし、何といっても薩埵峠から望む富士山が美しかった。また、大井川河畔にある川会所や番宿、札場跡も面白い。

(写真は三条大橋東詰からの風景)——->

◆【第三ステージ】
 ・五月八日〜十二日(五日間) 磐田〜四日市
 ・一九七、〇〇〇歩(約一三八km)
 ・通過宿場=浜松、舞坂、新居、白須賀、二川、吉田、御油、
 ・・・・・・・・・・赤坂、藤川、岡崎、知立、鳴海、宮、桑名、四日市

 舞坂で泊まった民宿の方に、浜名湖の対岸にある新居まで、小型漁船で送ってもらった。新居には、全国でここだけに現存する関所が残されている。御油宿の松並木は天然記念物にも指定されているので、見事な景観だ。赤坂宿には、江戸時代からの旅籠があって、現在も営業している「大橋屋」がある。宿泊を頼んだが、満室で泊まれなかった。宮宿から桑名宿の間は、「七里の渡し」といって舟で渡っていたが、今はない。

◆【第四ステージ】
 ・十月十二日〜十五日(四日間) 四日市〜三条大橋 一五三、〇〇〇歩(約一〇七km)
 ・通過宿場=石薬師、庄野、亀山、関、坂下、土山、水口、石部、草津、大津

 暑さを避けて中断していたが、再開。関宿は、電柱や電線のない街づくりがなされていて、昔の頃にタイムスリップしたようだった。約二kmにわたり江戸時代さながらの街が続き、東海道中で一番の家並みである。やがて、最後の難関、「鈴鹿峠」を越える。峠にある万人講大石灯籠は、その大きさに驚く。

 十九日目の夕方、「三条大橋」に無事到着した。橋の西詰にある、弥次さん喜多さんの像に声を掛けた後、鴨川の河原に下りて、缶ビールで一人乾杯。

◆あとがき
 延べ十九日間、約七一七、二〇〇歩(約五〇三km)、一都五県一府を無事歩き終えた。資料によると、「江戸時代、江戸から京に向かうには、東海道で十二泊十三日、中山道で十五泊十六日が成人男性の標準的日数だった」、とのことだが、当時の道路状況やその他の条件を考えると、「昔の人はすごい!」の一言。

 旧東海道には、遺構や遺跡の類が無数にあり、加えて富士山が借景としてあるため、歩き旅の人気コースのようで、歩道や標識の整備もそれなりにされている。知識としてある名所や旧跡を目にすると、少しばかりの感動と史実を想い起す。そのため、写真の撮影枚数が多くなった(約一二二〇枚)。

 とりわけ箱根の峠は、唱歌にも歌われているように、まさに“♪箱根の山は天下の険“で、名のある峠や坂も多く、しんどい思いもしたが、それだけに完歩の歓びは大きい。形態の違いはあれ、「旅」は未知を知にしてくれる楽しさがあり、「歩き旅」は、クルマなどでの旅では決して気付かない何かがある。

 さらに、人と触れ合う機会も多く、今回も多くの方のご好意をいただいた。これからも身体と相談しながら、無理なく、「歩き旅」を続けてゆきたい。(了)