「いきいき生きる」 鳥取短期大学 学長 山田 修平

2010年4月11日
『いきいき生きる』
鳥取短期大学
学長 山田 修平(写真右:鳥取短期大学ホームページより)
第45回中国ブロック・米子大会での記念講演(米子市公会堂)
≪日本断酒連盟発行「かがり火 第158号」(2010年7月1日付)より転載≫

◆はじめに
 今日は「いきいき生きる」というテーマでお話をさせていただきます。本題に入る前に、皆さんにちょっとしたテストをしてみたいと思います。どんなテストかと言いますと、今はいろんな状況の時代にありますが、その一つとして、高齢化社会がやって来ました。
 
 別の言い方をすれば、人生が長くなったことです。このことは決して悪いことではありませんが、困ったこともあります。認知症、ボケ症状を持った老人の方が非常に多くなってきました。

 そこで、皆さん方には申し訳ありませんが、最初にボケ症状の予測テストというのをしてみたいと思います。合計で25問あります。「ハイ」がいくつあるか数えてみてください。質問は次の通りです。

(1)一日中ほとんどごろ寝して、テレビで過ごす
(2)これといった趣味がない
(3)話し合える友だちがいない
(4)外出嫌いで家にこもりがち
(5)自分の仕事や役割がない
(6)世の中のことに関心がなく、新聞や本を読まない
(7)これといった生き甲斐がない
(8)身体を動かすのを億劫がり、無精な方である
(9)冗談を言ったり、聞いたりするのが嫌である
(10)高血圧か低血圧である
(11)いつも愚痴ばかりこぼす
(12)死にたいが口癖
(13)神経質、几帳面過ぎると言われる
(14)あれこれ取り越し苦労ばかりする
(15)いつもイライラして、怒りっぽい
(16)何かに感動する心が無くなった
(17)何でも自分でやらないと気がすまない
(18)言い出したら他人(ひと)の話を聞かず、頑固と言われる
(19)無口である
(20)連れあいがいなくなって、5年以上になる
(21)ありがとうの言葉が気軽に言えない
(22)昔の自慢話ばかりしている
(23)新しいことに興味がない
(24)何でも自分が中心でないと気が済まない
(25)何でも我慢することが難しい

 さて皆さん、「ハイ」が幾つありましたでしょうか。先ず、20コから25コあった方、申し訳ありませんが、将来必ずボケるそうです。次に、8コから19コの方、ボケに要注意だそうです。2コから7コの方はやや安心、もうひと頑張りだそうです。そして、ゼロまたは一つの方、この方は絶対にボケないか、またはウソつきな方だそうです。皆さんは如何だったでしょうか。

 今、私は冗談のように申し上げましたが、実は認知症専門のお医者さんがお作りになったテストです。勿論、認知症とかボケになるにはいろんな理由がありまして、現在(いま)そうした状態になっている方のことをとやかく言う気は毛頭ありません。しかし、一つの心のあり様としてお気付きになりましたでしょうか。質問に対する両極のお答えをされた方は危ないのだそうです。

 その両極ですが、一つは、何もしないでダラーッとしている方。もう一つは、いつも神経がピリピリして、いろんなことが気になって仕方がないという方です。そこで、ゆったり構えながら、しかし、すべきことはきっちりとする。こんな心のあり様が大切だと言われています。

 さらにもう一つ、私の大好きな詩をご紹介します。私は坂村真民という方の詩が好きでよく読みます。詩を読むと、この方は早起きに違いない。詩から、「朝の香り」を感じます。ある時、直接お話を伺いました。なるほど朝が早い。真民さんは、朝一時に起きます。朝の凛々とした雰囲気の中で詩を作ります。その真民さんがこんな詩を作っています。タイトルは、「二度とない人生だから」。ご紹介します。

二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛をそそいでゆこう 一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけてゆこう
二度とない人生だから 一匹のコオロギでも ふみころさないようにこころしてゆこう どんなにかよろこぶことだろう
二度とない人生だから 一ペンでも多く便りをしよう 返事は必ず 書くことにしよう
二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう
二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいのふしぎをおもい 足をとどめてみつめてゆこう
二度とない人生だから のぼる日しずむ日 まるい月かけてゆく月 四季それぞれの 星の光にふれて わがこころを あらいきよめてゆこう

 言われればその通りです。私も今、自分自身の二度とない人生を生きています。皆さんも、皆さんのお隣の方も、すべて二度とない人生の主人公です。

 今日は断酒会でのお話ということですが、私は正直、断酒のこと、お酒のことはよく分かりません。しかし、今日のテーマである、「いきいき生きる」ということを本気で考えていれば、お酒に頼るような生き方は無くなるのではないか、そんな思いを込めて、「いきいき生きる」というお話をしてみたいと思います。

 お話をするにあたり、四つの柱を立てました。先ず、一つ目は高齢化社会をテーマに、歳をとる特徴や問題点を少しお話したいと思います。二つ目に、そういう中で様々な生き方があるという、生き方のタイプのお話です。

 三つ目からは今日の本題になるのですが、私の前に素晴らしい生き方をされている人生の先輩が大勢おられます。その方々の何人かをご紹介したいと思います。四つ目に、そういった方々の生き方の特徴とは一体何だろう。どんな共通点があるのか。それらの中から、「いきいき生きる」、その秘訣を学んでみたいと思います。

1.高齢化の問題点と特徴
(1)『老』の字が表す光と影
 我々はややもすると、歳をとるということに悪いことばかりが頭に浮かびます。しかし、ご老人の老を使って良い意味を示す言葉はたくさんあります。皆さんの頭の中で思い浮かべてみてください。例えば、老練、老巧ですね。ご老人の老に、練、あるいは巧。多くの経験を積み、熟練して優れた技能を持つ。物事に巧みであるということですよね。

 また、老舗ですね。食べ物のお店であれば、伝統があって味付けが何ともいえず美味しいお店。あるいは、ご老人の老に教師の師で老師。人生の先輩は、若くしても老師と呼んだりもします。このように、歳をとるということに良いことはたくさんあると思います。

 しかし、物事には何であれ光の部分があれば、影の部分もあるのが事実です。反対に、ご老人の老を使って悪い意味を示す言葉。これも残念ながらたくさんあります。例えば、老化、老衰。歳をとって段々と弱っていきます。そして、歳をとるだけならいいけれど、老醜(ろうしゅう)、醜くなります。さらに進めば老害、害となります。このように、老練、老巧があれば、反対に老化、老衰というマイナスの部分もあります。これも事実だろうと思います。

(2)三つの側面からの高齢問題
 もう少し具体的に歳をとるという問題を、三つの角度から考える必要があると思います。一つは身体の問題です。次に経済的な問題です。そして、心の問題です。

 先ず、歳をとってくればどうしても身体の問題が起こってきます。目がかすんでくる、耳が遠くなる、足腰が弱くなる、内臓が悪くなるなどの病気です。これは大きな問題だと思います。次に、経済的な問題です。働き盛りに比べて収入が減り、年金だけではやっていけないという減収の問題が起こってきます。

 しかし、それよりもっと大きな問題があります。それは、心の問題だと言われています。自分の親しい人が亡くなっていく、妻や夫に先立たれてからの孤独という問題です。あるいは、段々と役割が無くなってくる無為の問題です。病気、減収、孤独と無為。これらは高齢の方々が抱える四つの悪いことと言われています。こうした問題があるのも事実です。

(写真:ツツジの頃の打吹公園・鳥取県倉吉市仲ノ町)——>

(3)女性が直面する「三つの問題」
 次に、男と女という視点から高齢化の問題を考えてみます。特に、女性には大きな問題があります。女性の人生を考えてみてください。

 40歳を過ぎてから50歳、或はもうちょっと先、現在では60歳になった頃から、夫か自分自身の両親の介護という問題が起きてきます。そして70歳代になると、今度は夫の介護という問題がやってきます。

 現在(いま)、日本の女性の平均寿命は86歳くらいになっています。世界で一番長生きというのが日本の女性です。そして、男性の平均寿命は段々延びて、78歳か79歳になりました。女性が74、75歳の頃に、男性は77、78歳。

 男性が亡くなるちょっと前に寝たきりか認知症になる可能性があるということは、女性が75、76歳の時に、男性の世話をする時期やってきます。夫の介護です。これはあくまでも統計上ですが、女性が76、77歳の時に、旦那さんが亡くなっています。

 その後、平均寿命の86歳までの10年間は一人暮らしの時期があります。一人で暮らす高齢者の80%は女性です。親の介護、夫の介護、一人暮らし、女性はこうした高齢化に伴う三つの問題に直面します。

(4)男性にとって深刻な「3年問題」
 一方、男性には問題はないのでしょうか。これからは、むしろ男性のほうに問題があると思われます。男性の平均寿命は79歳です。定年60歳の後、平均余命は19年あるはずです。ところが、60歳まで生きてこられた方の平均余命はもっと長いはずです。このような男性であれば、多分22、23年はあるはずです。女性であれば、30年以上あると思います。

 平均寿命というのは、オギャーと生まれた赤ちゃんが、今後どれだけ生きるであろうかという平均予測値です。幼い時に交通事故や病気で亡くなる人をすべて加味して、男性が79歳、女性は86歳です。それを前提に聞いて欲しいのです。

 昨年も一昨年もそうですが、ある大企業を60歳で定年退職した方の、その後の平均余命は3年間でした。小学校、中学校の校長先生が定年退職後、何もしなかった場合の平均余命も3年間です。歳をとってから妻に先立たれる場合があります。その時の夫の平均余命も3年間です。

 何故だと思いますか。生活の自立が出来ていない上に、仕事々々とやってきて、さあこれから地域のこと、家庭のことといっても何も分からないのです。その結果が3年間問題なのです。ややもすると、高齢化問題は女性の問題と言われますが、案外男性の問題かも知れません。

(5)人生の放物線、生涯発達の視点
 もう一つ、高齢化ということで是非知っておきたいことがあります。それは、身体面で見る高齢者像と、精神面で見る高齢者像があります。どういうことかと申しますと、人生の放物線といって、縦軸に体力・運動能力、横軸に年齢を置きますと、ある年齢までは体力・運動能力は上がって行きます。

 しかし、その年齢が過ぎると運動能力は落ちてきて、60歳、70歳、さらに80歳になるにつれて、運動能力は低くなります。確かにある年齢までは上がりますが、それ以降は下がります。

 このように、年齢が高くなるにつれて体力が弱っていく高齢者像があるのは事実です。しかし反対に、人生経験を得る毎に、精神的に熟成していくという見方もあります。年齢を重ねる度に、どんどん人生の経験が豊かになっていきます。両方とも本当です。このことをしっかり押さえておきたいのです。これが高齢化に関するお話の柱です。

2.さまざまな高齢者
 高齢者だけには限らない、我々にはどんなタイプがあるかと言われた時に、おおよそ5つのタイプがあると言われています。
(1)成熟型
 70歳、80歳であれ、さらにもっと歳をとっていても、逆境であっても、他人(ひと)からどのように思われていても、自分自身は現在(いま)の人生を本当に感謝の気持ちで受け止めて、社会のために何かをされている方。
(2)ロッキング・チェアマン型
 ロッキングチェアという揺れる椅子があります。あたかも揺れ椅子に座りながら、悠々自適の生活をする。しかし、精神的にも経済的にも家族におんぶされて、社会に関わって行こうとされない方。
(3)装甲型
 ダンプトラックのように装甲したクルマがあります。歳をとってからも、まだまだ頑張るんだと言っています。しかし、どこか肩肘をはったところがあり、そして、どこかに若者を妬(ねた)む気持ちがあります。
(4)怒れる老人方
 とにかく今の社会が、今の若者は、とムカついて仕方がない。本当に今の奴はとブツクサ怒っている方です。
(5)自己嫌悪型
 ネクラで滅入っているタイプ。俺は駄目だといつも思っている方です。確かにどの高齢者の中にも、そして案外中年の方や若者の中にもいろんな心の状態が混じり合っているのが本当かも知れません。しかし、出来ることなら一人ひとりが成熟型になって欲しいと思います。今日は、この成熟型の方々のお話をしたかったのです。

3.成熟型の人々
 今日一番お話ししたかったことに入ります。私たちの周りには、大勢の成熟型の方がおいでになります。今日は、三人の方を紹介してみたいと思います。

●南部忠平先生
 昭和7年、アメリカのロサンゼルスでオリンピック大会がありました。その大会において、三段跳びで優勝した南部忠平です。毎日新聞の運動本部長をはじめ、いろんな大学の教授を歴任されました。私は鳥取短大の7代目の学長ですが、4代目の学長が南部忠平でした。学長になられた時、南部先生はもう77歳でした。

 皆さんのことを思うと、お酒が飲めればいいとは言い難いのですが、南部先生も非常にお酒が好きでした。でもお酒を飲んだ翌朝は、アルコールを抜くのだと言って、必ずグランドに出て速足で歩いたり、軽やかにジョギングをしておられました。南部先生にまつわる思い出はいっぱいあるのですが、その内の一つに飴玉事件というのがありました。

 あろうことか、私どもの学生が授業中に飴玉をしゃぶっていました。随分問題になりました。「南部先生!授業中にこんなことをやっていたから怒ってやってください」、と皆がお願いしたら、先生は下を向いて黙っているのです。「学長、どうしたんですか」って言ったら、「いや、あの飴玉はワシがあげたのだ」、とおっしゃるんです。

 先生は普段大阪の吹田にお住まいで、飛行機で来られていました。飛行機の中でキャンディが配られます。それを沢山貰っといて学生に配ったのです。学生は、ついうっかり教室でしゃぶってしまったというのが真相でした。それ以降、学長室にキャンディが置かれるようになりました。キャンディをしゃぶる時は、学長室でということがルールになりました。

 このように、本当に学生たちに愛された先生でした。曲がったことは絶対嫌いでした。私が凄いなあと思ったのは、他人(ひと)の悪口を聞いたことがないことです。77歳から88歳まで学長をされましたが、姿勢はピーンとされていて、常に明るい方でした。以上がゴールドメダリストの南部先生でした。

●森 信三先生
 京都大学で、「善の研究」を書かれた西田幾太郎の第一の弟子と言われた方です。いろんな大学の教授を歴任され、晩年は兵庫県の尼崎、いわゆる同和地区のど真ん中に居を構えて、「実践人の会」を主宰されました。この「実践人の会」というのは、人生に前向きに取り組みたい人ならば、誰でも参加できる会です。

 誰でもですから、いろんな方がいらっしゃいました。お年を召した人、中年の人や若い人、女性も男性も、サラリーマンにOLも、家庭の主婦に教員やタクシーの運転手さんまでも。いわば、森先生を囲んで人生の勉強をします。森先生は大哲学者でたくさん本を書いておられますが、私が本当に偉いなあと思ったのは、そうした学問体系以上に、小さなことでもきちっとされる方でした。

 例えば、足元に落ちている紙屑は必ず拾われていました。しかし、紙屑を拾っていたらキリがありません。それで、自分自身のルールを作っておられました。自分の住む地域と自分の職場、そして、電車で職場に向かう時、駅のプラットホームに落ちている紙屑は必ず拾うことにされていました。

 そうした偉い先生が傍らで紙屑を拾われると、我々は後ろめたさを感じるのですが、森先生の場合は、そんな後ろめたさを感じさせないようにサラッと拾われていました。一人黙々と続けておられました。

 森先生を慕う人は全国にたくさんいます。森先生のお宅には、毎日のように手紙や葉書が届きます。一方、先生は、「実践人の会」や本を書くとか講演などで日々お忙しかったのですが、どんなにお忙しくても、受け取った手紙や葉書の返事は必ずその場で書かれていました。

 大変失礼な話ですが、私も京都から鳥取に移った時に転居通知を印刷して送りました。ところが、間髪を入れず手書きで返事が来ました。その後何回も手紙を差し上げましたが、必ず返事が戻って参りました。

 どうも頭の柔軟性と身体の柔軟性は一致するような気がします。どういうことかと申しますと、森先生は床に座って脚を広げて体を折り曲げますと、顔や胸、そしてお腹までペタッと床に付いていました。97歳で亡くなられたのですが、90歳を過ぎてからも身体は柔らかく、お腹が床に付いていました。

 私は、機会あっていろんなことで同和問題、同和教育のお話を聞かせてもらうことがありました。今回、この話をするにあたり、もう一度勉強し直さなければと、いろんな方の本を読み返しました。とりわけ尊敬する森先生はどんな考えの方なのだろうと、森先生の書物を片っ端から読みました。しかし、先生の考え方を記述した文章は、何処にも書いていないのです。おかしいなあと思いながら、ハタと思い当たりました。

 森先生は亡くなる直前まで同和地区のど真ん中に居を構え、「実践人の会」を主宰されていました。当然、地区の方もおいでになりました。我々もそこへ行き、話し合いをして交流もしました。森先生がおっしゃりたかったのは、同和問題や同和教育、学ぶこと、学習することは本当に大切だ。しかし、そこで終わっては駄目なんだ。交流して実践しなければ意味はないんだと、黙って教えていただいていたと、今更ながら思い返しています。

(写真:原生林で覆われた標高204mの打吹山・倉吉市仲ノ町)—>

●母
 私の母も成熟型人間の一人ではないかと思います。私は一人っ子で、母はずっと専業主婦でした。ですから母の生きがいというのは、一人っ子の私に注がれてきました。30数年前、私が結婚することになりました。その時母は、改めて自分の生きがいを考えたと思います。そして、二つのことを始めました。

 一つは、書道です。それから30数年経って師範の免許を取り、ボランティアで地域の方々に書道を教えていました。もう一つは、60歳前後だった母が英会話を始めました。英語と言っても、女学校を卒業して40年以上が経っていましたから、ABCさえも忘れたような段階です。そこで何をしたかと申しますと、テレビやラジオで英語と名の付く番組を片っ端から見たり聴いたりするようになりました。

 週一回、アメリカ人の所へ英語を習いに行くようになりました。そんな所へ行きますと、人前で自己紹介や何かを話す機会が与えられます。普通の方は、自分の名前と短い英語の話で終わりますが、母はさらに自分の好きな作家の与謝野晶子に始まって、何だかんだと長い文章を考えて話しました。

 それは出鱈目な英語です。それを我々に添削させると、来る日も来る日も暗記して、人前で恥をかきながら話し続けて40年近くが経ちました。母が電話でアメリカ人と話をすると、相手の方は、アメリカ人から電話があったと思うほど上達していました。

 母は、青春時代から夢が三つありました。一つは、英語が話せるようになること。次に、パリへ行くこと。そして、ピアノが弾けるようになることです。母の青春時代は戦争の時代でもありました。英語を話すことやパリに行くこと、ピアノを弾くことなどは、夢のまた夢の青春でした。20年以上も前になりますが、母は旅行でパリに行きました。それも団体旅行ではなく、小学校時代の無二の友人と行きました。

 パリに行くと決めたその日から、フランス語に挑戦し始めました。そして、一ヵ月余りのパリ滞在を終えて直ぐ電話をくれたのですが、「私のフランス語はパリで通じた」、と喜んでいました。そして、パリから帰ってから、母はピアノに挑戦しました。

 父と母はずっと京都で生活をしていました。今から10年ちょっと前に、父がまったくの寝たっきりになりました。風邪って怖いですよ! 風邪から始まって、寝ている間に脚が硬直して、寝たっきりになって3年間。そんな状態ですから、是非鳥取で一緒にと言ったのですが、京都で頑張るということで、母が父の面倒を看ていました。私と妻は何回も京都に通いました。でも、普段はずっと母が父の面倒を看ていました。

 いろんな思い出がありますが、こんなことがありました。1年くらい経った頃でしょうか、父と母だけの二人になった時です。父が、出るか出ないような声で母に言ったそうです。「愛の歌を歌ってくれ」。母は自分の大好きな、「パリの屋根の下で」、というシャンソンを歌ったそうです。

 その後、2年、3年経った頃です。母は専業主婦で、父の傘の下で生きてきた人ですから、いろんな思いを込めて、「お父ちゃん、これで少しは恩返し出来たね!」、と言ったら、父は言ったそうです。「まだまだ足りん!」。そして、ニコッと笑って、「ありがとう」、と言って亡くなっていきました。

 それからのことですが、母が乳ガンになっていることが判りました。もう80歳を超えていました。80歳を超えて、果たして乳ガンの手術に耐える体力があるかどうか。しかし、そのままにしておけば悪くなる一方です。随分迷いましたが、手術しようということになりました。その時、母が言いました。「手術が成功したら、大好きな英語やピアノが弾ける。失敗したら、大好きなお父ちゃんに逢える」。幸い手術は成功しました。

 今から6年前、母は85歳、京都で一人暮らしでした。要介護度2で、ヘルパーさんに週3回来てもらっていました。その母が、85歳の時からインターネットのEメールを始めました。毎日私にメールを送ってきました。デジタルカメラで顔写真を撮ってスキャナーして、「今日はこんな表情だから安心をし」と。

 今から3年前の88歳米寿の時、毎年ささやかな旅行をしているのですが、米寿だからもうちょっと大きな旅行をしようと、母に何処へ行きたいのか訊いたところ、今評判の北海道旭川動物園へ行って白クマを見たい。よし行こうと、私と妻、そして母の三人で関西空港から飛行機に乗って行ったんです。

 その日がたまたま7月7日の七夕だったので、客室乗務員の方が、何か願い事を書いてくれと短冊を配られました。私は孝行息子らしく、母の健康がどうの・・・と書きました。母は何を書いているのかと横を覗くと、「次はアメリカへ行きたい」、と書いていました。

 それからも、週3回ヘルパーさんに来てもらいながらの一人暮らしが続いていました。我々も、しょっちゅう京都に行っていました。それでも母は、一人でずっとやっていたんです。昨年の9月25日、お世話になっているヘルパーさんから電話がありました。「お母さんの様子がちょっとおかしい」。私は仕事の関係で直ぐには行けなかったので、妻が飛んで行きました。

 その夜、妻から電話があって、そうでもない・・・・。翌26日の朝、「やっぱり様子がおかしい、救急車を呼びます」。携帯電話でやり取りしていたら、今意識不明ですと言っていましたが、私も何とか間に合って集中治療室に入りました。しかし、20時間後に亡くなりました。

 「私が亡くなる時は二日間で亡くなる」、と母は日頃から言っていました。オシメをすることもなく、本当に二日間で亡くなりました。そうした生き様だけでなく、死に様を通していろんなことを教えてくれました。このような経験がありました。

(写真:大山の姿が逆さに映る灌漑用溜池の大山池・倉吉市泰久寺)—->

4.人生の先輩に学ぶ
(1)人生二度なし
 こうした南部先生や森先生、あるいは母からいろんなことを教えてもらいました。一つは、やはりかけがいのない人生、二度とない人生です。これを様々な経験や体験から体感されているのだなと思いました。

 南部先生は非常に明るい方で、世の不幸なんか関係ないという顔をされていました。しかし、本当は非常に辛い目にお会いになっています。一人娘さんの南部敦子さん。この娘さんもアジア大会の100mで優勝して、日本のヒロインになった方です。一人娘さんですから、南部先生は本当に可愛がられました。オート三輪に乗って、二人だけで日本一周をされました。そんな思い出のあるお嬢さんでした。

 このお嬢さんが結婚されて東京でお住まいになり、お子さんが生まれました。ある雨の日、ブラジルの友人が羽田に着いて、是非会いたいと電話が掛かってきました。敦子さんも会いたいということで、クルマで出掛けようとしました。ところがどうしたものか、免許証が見つからず、タクシーを呼ぼうと外に出ました。雨なのでタクシーはなかなか止まりません。

 遅れるといけないというので、一度家に帰って免許証を探しました。不幸なことに、免許証が出てきました。クルマを運転して国道を走っていたら、対向車線を走っていたダンプトラックが、雨でスリップしてセンターラインを越えて、敦子さんのクルマに正面衝突しました。彼女は即死でした。子どもを持つ親にとって、自分の子どもに先立たれる不幸がありますでしょうか。

 こうした不幸を乗り越えて、日々を大切にして生きなければ先立った子どもに申し訳ない。南部先生からは、このような思いをいつも感じていました。森先生もご長男に先立たれています。一度しかないこの人生をどう生きるのか。たった一度の人生だから大切に生きたいという思いが、日々の生き方に繋がっていく。そんな気がしてなりません。

(2)健康づくり
 生きることで一番大切なのは、やはり健康づくりだと思います。南部先生は歳をとってからも大丈夫かと思うほど、肉系の食べ物をよくお食べになりました。しかし、生野菜や生レモンなどをたっぷり一緒に食べておられました。そして、日常的に身体を動かすことをされていました。森先生は身体が非常に柔らかいと申しました。何故かと申しますと、真向法という体操をされていました。

 その一部を紹介します。我々が日常している体操なのですが、坐ってから脚を投げ出して、身体を前に折り曲げる。たったこれだけの体操ですが、コツが二つあります。一つは足先を真上に上げること。それから、身体を曲げる時に、真っすぐに曲げることです。ですから、森先生は90歳を過ぎても、お腹、胸、顔と下から順に、床にピタッと付いていました。

 我々は背中が曲がっていますから、頭が床に付けばいいということになりますが、先生は見事にお腹から顔までピタッと付いていました。こういう体操を風呂上りに5分するだけで、あの柔らかさでした。また、食べ物の食べ方にもうるさい方で、ご飯と菜っ葉は口の中では一緒に噛まない。ご飯はご飯だけでよく噛んで食べる。菜っ葉は菜っ葉だけでよく噛んで食べる。それが胃にも一番良いし健康にも良い。このようにおっしゃっていました。

 もう一つ、森先生がよくおっしゃっていたのは、腰骨を立てるということです。背筋を真っすぐすること。肩にチカラを入れないように自然体で真っ直ぐにする。それが主体的に生きるコツである。健康にも良い。皆さんもそうお思いになりませんか。

 気分が萎えている時は、背中が丸くなっている。身体をきちっと整えることから、自分の気分を真っすぐにする。これはすごく重要なことです。また、母の健康法は自然に即して生きること。決して無理のないように、自然に考えて、そして自然というものに関わりを持つ。それが健康法だと言っていました。健康であるということは重要だと思います。

(3)比較の心からの脱却
 心の持ち様ですが、大切なのは比較の心から脱することだと思います。考えれば、我々が悩んだり、苦しんだりするのは、ほとんどの場合、物事を他人(ひと)と比べるところから起きています。頭が良い、頭が悪い。金持ちだ、貧乏だ。美人だ、私は美人じゃない。これらはすべて、他人と自分とを比較して表現する言葉です。

 子どもたちの心を一番傷付けているのも、この比較することから起こっています。お兄ちゃんと弟を比べてどうの、うちの子はあの子と比べてどうのではなくて、自分の子は自分の子らしく、あの子はあの子らしくというように育てることが一番大切なことではないでしょうか。

 他人と自分を比較しないことと同時に、もう一つ大切なことは、現在(いま)の自分と過去の自分を比較しないことです。あの頃は良かったと思うことが老化の始まりです。現在の自分を自分らしくという心を持つことです。その代わり、他人に対しては、それぞれの良いところをきちっと見ていく、このような心を持つことが大切ではないでしょうか。

(4)学び続ける
 やはり学び続けることではないでしょうか。学ぶということを人生の中核に置いた時、我々は精神を真っすぐにすることができると思います。断酒を学ぶこともそうでしょう。本を読むこともそうでしょう。他人の良いところを学ぶのもそうでしょう。とにかく、学び続けることです。

森先生は、「実践人の会」で、自分だけがお話しされるのではなく、誰の言葉にも耳を傾けておられました。これも学びです。南部先生もそうです。母は60歳から英語を学びました。70歳を過ぎてからはフランス語とピアノです。何事をするにしても学ぶにしても、始めるのに遅いということは決してありません。学ぶことだと思います。

(5)社会にお返しする
 我々はいろんな人のお陰で生きてきました。今度は、そのお陰を誰かに返していくことが必要ではないでしょうか。今まで得てきたこと、支えられてきたことを、今度はそれを他人(ひと)に返していくことが、これからの生き方として非常に大切なことではないでしょうか。

 私はこうした成熟型の方々から学んで、現在(いま)意識的にしていることを、一つお話させていただきます。「一日は一生の縮図」と考える生き方です。どういうことかと申しますと、先ず人生を考えてみます。生まれて、やがて学校へ行って、いろんな意味で育まれ、学ぶ時期があります。

 次に、社会人としていろんな分野で活動し、仕事をする時期があります。そして、ある年齢に達したら、今度はゆっくりと安らいだり、いろんな人のお陰で生きてきたということで、その恩を社会にお返しする時期があります。学ぶ時期と活動する時期、そして社会に還元したり休んだりする時期があります。

 そこで私は、それら三つの時期を一日の過ごし方に採り入れて、日々暮らしています。私は、毎朝4時に起きます。その後、学ぶこと、ウォーキングやジョギングをしています。トレーニングや本を読んだりする時間、これが大体8時頃まで。8時半から夕方5時半までは、活動や仕事の時間です。仕事も定刻に職場を離れることにしています。ダラダラ仕事をしないようにしています。

 そして夕方から夜は、水泳で身体を鍛え、NPOやボランティア団体に行って、ちょっとした社会的お返しをする活動をしています。ということは、朝は学んだり身体を鍛えたり、昼間は活動したり、夜はボランティア活動をしたり安らいだり、一日を一生のように暮らしています。このことが、毎日々々をフレッシュに生きることができると思っています。こんな気持ちで一日を過ごしています。

(写真は倉吉市の中心部を流れる天神川)——>

◆おわりに
『五日市 剛さんの素敵な言葉を』
 最後にとっても素敵な言葉を紹介してみたいと思います。五日市 剛さんという方の言葉です。私が京都にいた時の仲間の一人が、京都から鳥取に移ってきました。それを機会に、ある人の講演会をしたいと言いました。誰だと言ったら、「五日市 剛」、と答えました。

 当時、私は五日市さんのことを全然知らなかったので、どんな人かと訊くと、愛知県の実業家で、とってもいい話をされるとのこと。どんな話かと尋ねると、一冊の本をくれました。五日市さんの講演をまとめた本で、タイトルが、「ツキを呼ぶ魔法の言葉」。何か新興宗教みたいで嫌だなと思いましたが、読んでみたらとてもいいことが書いてありました。

 五日市さんは若い時、自分はどう生きるのかと本当に迷って、放浪の旅に出て世界中を歩き回りました。そして、イスラエルまで来た時に、あるお婆さんに出会いました。お婆さんが教えてくれた、たった三つの言葉が自分を変えたとおっしゃるのです。

 第一が、「ありがとう」です。ただ、我々は有り難いことがあった時に、「ありがとう」と言いますが、五日市さんの場合、嫌なことや不幸なことがあった時も、「ありがとう」なのです。何故か。クッソーとかコンチクショーとか汚い言葉を使っていると、不幸が不幸の鎖を呼ぶとおっしゃるのです。そこで、「ありがとう」の気持ちで受け止めることによって、その不幸の鎖がポーンと切れてしまうのです。

 二つ目は、本当に良いことがあった時は、「感謝しています」。どういうことかと言いますと、我々は心、心と言いますが、結局、心は言葉で考えています。言葉が綺麗になりますと、心も綺麗になります。その心が行動になるのです。

 例えば、挨拶するとか、時間を守るとか、ゴミを拾うことでもいいのですが、行動が習慣になると人格になるのです。人格が出来上がってくると、ここに運が向いてくるとおっしゃるのです。その始まりは、「感謝しています」という綺麗な言葉です。それが心になり、心が行動になって、やがて習慣になると、人格になってくるのです。

 三つ目は、物事全般を、「ツイテいる、ツキがある」と、プラス発想しようということです。何であれ、一見マイナスと思われたことが、実はプラスだったことはたくさんあります。例えば、野球チームの4番打者が怪我をすれば、チームにとっては大ピンチです。

 しかし、新しい4番が生まれるチャンスかもしれません。怪我をした本人はピンチかも知れません。しかし、それは自分のプレーを見直すチャンスかも知れません。このように一見してマイナスと思われていることが、実はプラスだったことはたくさんあると話されていました。

 例えば、「ありがとう」。ある日、五日市さんはクルマを運転していました。その時、不幸なことに後ろからパァーンと追突されました。誰でも一瞬クッソーと思いますが、ここで、「ありがとう」、と心の中で囁くのだそうです。そうすると、心が随分と落ち着いてくる。追突した人とゆっくり交渉ができて、果ては友人になり、彼の結婚式に招待されるまでの仲になったとか。

 五日市さんの会社に、一人だけ、本当に梲(うだつ)の上がらない社員がいて、どんな上司に付いても上手くいかなかった。それならば、社長の五日市さん、自身直属の部下にしました。そして、その人に一つだけ約束させました。朝出社した時に、「今日はどうだい」、と訊くから、「ツイテいます」、と応えてくれ。帰る時に、「どうだった」、と言ったら、「ツイテいました」、と言ってくれ。社長命令です。

 初めのうち、その社員はイヤイヤ言っていました。それが、3ヵ月経ち、4ヵ月経ち、6ヵ月も経つと、「ツイテいました」、と本気で言えるようになってきたのです。「ツイテいました」、という言葉から、一見マイナスと思えていたことが、物凄くプラスに見えてきたのです。働き方が変わってきたのです。こういうお話をされていました。

 この、「ありがとう」、「感謝しています」、「ツイテいます」、という言葉は絶対に効き目があると思います。私は、この講演を妻と一緒に聞きに行きました。翌朝から、妻の態度がガラリと変わりました。

◆まとめ
 さて、今日のお話をまとめさせていただきます。「いきいき生きる」、というテーマでお話をさせていただきました。高齢化を一つの例に取りました。高齢化を考える時、老練、老巧の面もあれば、老化、老醜(ろうしゅう)というマイナスの部分もあります。こういったプラス、マイナスは何事にもあります。

 例えば、身体の面から見れば、体力は段々衰えてきますが、逆に、精神面では成熟していく部分があります。その中でいろんなタイプの高齢者の方がおられますが、出来れば成熟型の高齢者になりたいものです。その例として、南部先生や森先生、そして申し訳ありませんが、私の母を紹介させていただきました。

 共通点はと言われれば、そうです、人生一回しかありません。だから、できることから健康作りをしましょう。そして、比較の心から抜け出して、自分らしく生きることです。さらに、他人(ひと)の良いところを見続けていく、そういう眼差しを持ちたいと思います。

 やはり、学ぶことを人生の中核に置きたいと思います。そして、少しでもいいから他人に恩返しする、そういう生き方をしていきたいと思います。今日は皆さんの前で、こうしてお話ができて、ツイテいました、有難うございました。(了)

◆山田修平氏の略歴
1945年岐阜県生まれ、京都育ち
京都産業大学大学院経済学研究科博士課程修了
米国・ジョージワシントン大学特別研究員として留学
現在、学校法人藤田学園理事長、鳥取短期大学学長
専門分野:労働経済、社会福祉
鳥取県教育委員会委員、鳥取県福祉研究学会会長
鳥取県ウォーキング協会会長
(完)