「しあわせのかたち」 高知新聞社 社会部記者 竹村 朋子

(写真:高知市五台山公園から眺めた新柳橋と高知港)—–>
「しあわせのかたち」
高知新聞社 社会部記者
竹村 朋子

○はじめに
 酒害から立ち直り、断酒生活でどんなに真摯に努力をしても、家族崩壊が防げないケースがある。西内雅志さん(仮名・39歳)の場合、彼に運がなかったというより、もっと大きな問題が潜在していると気づいた女性記者が、新聞紙上に彼の飲酒記録を連載した。

◆平成7(1995)年1月17日未明
 平成11年7月、神戸市の病院。雅志さんに対し、医師は診断結果をこう伝えた。「PTSD(心的外傷後ストレス障害)による自律神経失調症です」。「何のPTSDです?」。「阪神大震災です」。雅志さんは数年前から雨や雷などの自然現象に不安を抱くようになっていた。

 病院に行ったのは、食事が満足に摂れなくなり、真っすぐな姿勢を保てなくなったからだ。「(診察を受けた時)普通に生活できる日が戻ってくると、心に安心感が生まれました。もう仕事で無理はせんと思いました」。現在、高知県東部の街に住む雅志さんが振り返る。「症状がどんどん悪くなっていくとは思いもしなかったんです」。

 平成7年1月17日午前5時46分、大きな揺れが阪神地方を襲った。神戸市垂水区のマンションで就寝中だった雅志さんは、隣で眠っていた妊娠7ヵ月の妻を抱きしめた。食器棚の扉が開き、皿が割れた。テレビから火花が飛び、この世のものとは思えない地鳴りが響いた。

 揺れが収まった後、自宅のマンション近くに停めてある自家用車に妻と避難した。夜明けまでの一時間がとてつもなく長かった。夜明けとともに近くの小学校へ避難した。翌日、自宅に戻った。幸い大きな被害はなかった。数日後、会社に出勤。その後、仕事を始めた。

◆人は自然にかなわない
 雅志さんは神戸市垂水区から大阪の設計事務所に通っていた。震災後、災害復旧工事の予算見積もりをするため被災地を回った。液状化したポートアイランド、今にも力が尽きて道路に崩れ落ちそうなビル、完全に崩壊したビル。雅志さんは悲痛な気持ちを胸に抱え続けた。

 ある夜、大阪で上司と居酒屋に行った。そこで思いがけない言葉を聞いた。「地震のニュースばっかりでたまらんで。子どももアニメを見たいのに。いい加減にせんやろか」。自分と上司の感情の隔たりに驚き、怒りが込み上げてきた。「周りの人もそう思っているのか」。慌てて周囲を見渡した。

 神戸では、多くの人が倒れかかった建物の間を歩いて通勤していた。「いつビルが倒れるか分からない」。怖くてたまらなかった。「余震は一日に何十回も起こり、その度に血の気が引く。気が休まることはなく、怖さだけが増えていきました」。

◆追い詰められるような
 阪神大震災から2ヵ月後の平成7年3月、東京のど真ん中で地下鉄サリン事件が起こった。東京出張中の同僚は無事だったが、心はざわめいた。当時の心境をこう振り返る。「人間は自然には敵わないし、いつどこで事件や事故に巻き込まれるか分からない。そんな思いに囚われ始めたんです」。

 阪神大震災から3ヵ月後、雅志さん一家に女の子が生まれた。自分の誕生日とは三日違い。可愛くてたまらなかった。神戸の街も少しずつ復旧し始め、日常生活が戻ってきたように思えた。

 震災から2年が経った平成9年から、雅志さんの心に変化が起き始めた。事件や事故、雨や雷など自然現象の変化が気になり始めた。同年5月、自宅近くの神戸市須磨区で小学生が殺される事件が起こった。雅志さんは、大事な家族が事件に巻き込まれてはいけないと思い、「外出は控えて」、と妻に何度も言った。

 その年の秋、東京へ家族旅行に出掛け、海に面した高層階の部屋に泊まった。荒れる海と空を覆う雲に追い詰められるような感覚に襲われた。その後、何とか仕事をこなしながら2年が過ぎた。

 症状が酷くなったのは平成11年の6月。友人の結婚式に出席した時、窓から見える曇り空に不安が高まり、「早く(酒を)飲んで落ち着きたい」、と思った。帰り道、新幹線に乗ると激しい雨。車内に閉じ込められたような感覚に陥り、抜け出したい一心で酒を飲んだ。仕事上では、責任のある業務が増え、勤務時間は同僚の中でも突出して多くなっていた。面倒見の良い上司が飛ばされ、無力感も感じていた。

◆大雪、不安、カップ酒
 1ヵ月後、「阪神大震災によるPTSD」と診断された。雅志さんは、「仕事では、もう無理はしない」、と自分に誓った。無理さえしなければ、雨や風を恐れず、食事も摂れる普通の生活に戻れると思っていた。ところが、天候を気にする時間は長くなり、その度合いも強さを増した。

 朝から降る雨に耐えられず、夕方前に退社したこともあった。手帳には雨や雪の量、気温に関する記述が増えていく。気分を紛らわすため、酒の量も少しずつ増えていった。

 平成13年の正月だった。妻の実家で過ごしていた時、妻から初詣に誘われた。天候の悪さが不安だった。家に残り、ちびりちびりと酒を飲んだ。「このまま時間が止まって欲しい」、と思った。正月休みが明け、阪神地方は寒波に見舞われた。灰色の空から断続的に雪が舞っていた。出勤中だった雅志さんは不安でたまらなかった。

 JR大阪駅の改札を出た所にある売店の前で足を止めた。カップ酒を買い、その場で一気に流し込んだ。出社前に飲んだのは、この日が初めてだった。この時を境に、雅志さんの飲酒行動が少しずつ変わり始めた。会社での残業で、同僚たちと割り勘でビールを買うことはあったが、やがて、自分のために自分でビールを買うようになった。

◆勤務中も飲むようになった①
 「(自然現象や社会に対する)不安な気持ちを紛らわせたかったんです」、雅志さんが平成13年を振り返る。この年を境に雅志さんは、仕事の日も日中から酒を飲み始めた。出勤の際、酒の安売り店でウィスキーを買った。パンパンに膨らんだ鞄をロッカーに入れ、終業時刻の午後6時になると、ウィスキーを取りだして会社で飲んだ。

 やがて、勤務中にコンビニへ酒を買いに行くようになった。人目を避けるため、5階の職場まで非常階段を上り下りした。昼休みに飲み、そのうち勤務中にも飲むようになった。家でも不安ばかり感じていた。数十分ごとに雲の様子を確かめた。
★以上は全日本断酒連盟発行「かがり火 第138号」(2007年3月1日付)より転載

(写真:上空からの高知龍馬空港・高知県南国市)——>

◆勤務中も飲むようになった②
 闇に覆われる前の夕方が怖く、気分を落ち着かせようと近所の自動販売機に向かった。「散歩に行く」、と出掛け、買ったその場で飲んだ。娘が、「私も行く」、と笑顔で付いてきた時は、どうしても酒を買うことができなかった。

 「家族や仕事がどうでもよくて飲んでいた訳ではないんです。人間はどこでどうなるか分からない。自然現象や社会が怖くてたまらず、外に出ることができない。そんな自分自身に絶望していました。

 娘も6歳ながら、何とかしたいと思っていたのかも知れません」。鏡を見ると、土色の顔をした自身の顔が映っていた。おかしな行動をしていると分かっていても、止められなかった。お酒に取り付かれていた。

◆お父さんとここにおる
 自然現象や事件、そして心の不安から外出できなくなった自分自身に絶望した雅志さんは、気を紛らわすために酒を飲んだ。平成13年6月末、会社を辞めた。朝から晩まで酒を飲む生活が続いた。7月下旬、妻が運転する車に乗せられ、神戸市の自宅から高知県東部の実家に戻った。

 「当時は、寝ても覚めても不安だらけ。その不安を除くことができるのなら、酒でも処方薬でも、何でもよかったんです」。その頃、雅志さんは神戸市の病院で出されていた処方薬にも依存していた。薬は十種類前後処方されていた。

 実家に戻った後、アルコール専門病棟のある高知市の病院に入院した。病院は初めての場所だった。極度の不安に陥った雅志さんは、鎮静剤を打たれた。雅志さんの妻は、「神戸に戻る」、と言った。傍にいた娘は泣きながら訴えた。「嫌や。お父さんとここにおる。神戸なんかに戻らへん。いやや」。

 薄れていく意識の中で、雅志さんは娘の顔を撫でることしかできなかった。その日、雅志さんは医師の診察を受けた。診療計画書には、アルコール依存症(強迫性障害、または妄想性障害)と書かれていた。「自分は、阪神大震災によるPTSDなのに」。アルコール依存症が何なのか、よく分からなかった。

◆退院さえすれば会える
平成13年7月、高知市の病院に入院した雅志さんは、院内の断酒例会に出た。出席者が、酒を飲んで起こした失敗や、周りに迷惑を掛けた体験談を自ら発表する会合だ。「自分のことを誰かに聞いて欲しかった」、と思っていた雅志さんは、酒のことではなく、雨や雷などの自然現象や、これから生きていく社会が不安でたまらなくなる自分の病気を語った。

 入院は2ヵ月間。雲の様子が気になり、買い物など必要な場合以外は病室で過ごした。不安を紛らわす酒が飲めなくなったことが不安になった。その不安に耐えきれず、こっそり酒を飲んだこともあった。

 退院前、神戸市に住む妻が初めて見舞に訪れた。病院に近い喫茶店で話をした時、妻の言葉に雅志さんは愕然とした。「あなたが心配で来た訳やない。医師や看護婦さんに、『妻はまったく見舞いに来なかった』、と言われるのが嫌やったから」。

 アルコール依存症の人を取り巻く周囲の反応は、多くの場合冷たい。依存症の夫を持った妻の多くは、「この人に苦労させられた」、「この人が死んでくれれば」、と思いながらも、「私がしなければ」、と酒の上での不始末の尻拭いをして、ひたすら世話をして共依存状態になるという。しかし、雅志さんの妻はそうではなかった。この時まで、退院すれば家族に会えると雅志さんは信じていた。

◆この気持ちを聞いて欲しい
 平成13年9月、雅志さんは退院した。神戸で暮らす妻が再び高知に来て、「退院してからのお父さんの行動を見てみたい。今は一緒に暮らせない」、と雅志さんに告げた。雅志さんは実家の農業を手伝っていた。ある日、肩を痛め、隣町の病院に通い始めた。帰り道、自動販売機で350ミリリットルの缶ビール一本を買って飲んだ。

 「一本で辛抱できた時、私はアルコール依存症じゃない」、と雅志さんは考えた。そのうち、ビール一本では済まなくなった。病院の帰りに飲むビールの本数は増えていった。実家の台所にある梅酒を隠れて飲んだ。退院したら家族と暮らせると思っていた雅志さんは、途方に暮れた。神戸市で心身の状態が不安定になり、家族のために働けなくなった時と同様に、自殺を考えたこともあった。

 自分の飲酒行動が異常だと分かっていたので、自分のこの気持ちを誰かに聞いてもらいたいと思った。入院していた病院でもらった県内の断酒例会の一覧表を見た。断酒会とは、酒による失敗談や体験談を語り、仲間と一緒に酒を断つ人たちの集まりだ。高知県は断酒会発祥の地。ほぼ毎夜、県内で例会が開かれている。病院の例会を経験していたので、断酒会に抵抗は感じなかった。自宅近くにある支部の門を叩いた。

◆寂しさとむなしさで
 平成13年11月、雅志さんは高知県断酒新生会に入った。当時の雅志さんは雨や雷、暗闇が怖くて車の運転ができなかった。先輩会員の車に同乗させてもらい、実家から各支部の例会に出向いた。しかし、心身に取り付いた酒と縁を切るのは簡単ではなかった。先輩が迎えに来る前に、家で飲んだこともある。正月、初詣に出掛けた神社でもお神酒を飲んだ。

 平成14年4月、同会の四国ブロック大会で体験発表を終えた後、支部の例会に出席した。その帰り道、ビールを買って飲んだ。ちょうどこの頃、神戸で暮らす娘の小学校の入学式があった。妻からは連絡がなく、娘と会えない日が続いた。「大きな大会で体験発表しても、自然を恐れる気持ちはなくならないし、妻にも分かってもらえない。何にも変わらない。寂しさと空しさが募ったのです」、と雅志さんは振り返る。

約一ヵ月後、「働く姿を妻に見せなくては」、と周囲に勧められ、試用社員として民間会社で働き始めた。ちょっとした文字の歪みが気になって数十枚もコピーした。自分に自信がなく、打ち合わせも満足にできなかった。同年9月のある夜、雅志さんは高知市にいた。居酒屋をハシゴした。そして、サウナに泊まった。自暴自棄になっていた。
★以上は全日本断酒連盟発行「かがり火 第139号」(2007年5月1日付)より転載

(写真:海抜139m五台山展望台からの高知市街)——>

◆中身の酒を全部捨てた
 「落ちるところまで落ちちゅうに、まだ分かってないがかえ」。例会に行く途中、雅志さんは居酒屋をハシゴした件で先輩会員から怒られた。翌日、昼間の例会に行くと、別の先輩会員が笑いながら言った。「ふっ切れたかよ」。「断酒会の仲間に迷惑は掛けられん、裏切られん」、雅志さんはそう思った。当時、雅志さんにとって、断酒会の例会は生活の一部になっていた。

 ところが、数日後、家族には例会へ行くと言っておきながら、隣町のスーパーでウィスキーと日本酒を買って実家に戻った。テーブルにずらりと並べた。「もう酒を飲まないといくら泣いても謝っても、コロンと変わって飲んでしまう」。酒に操られるアルコール依存の症状がよく表れた行動だった。

 天候が不安で外出もできず、仕事にも就けない。神戸で暮らす妻からは電話もない。酒を止めても無駄ではないのか。酒瓶を前にして、両親や姉夫婦と激論になった。やがて、自分でも不思議だが、庭に出て酒瓶の中味を全部捨てた。その日から断酒は続いている。「こそこそ飲む自分が嫌やったし、いろんな感情が混ざり合っていたんでしょう」。今、そう振り返る。

◆一週間待って欲しい
 庭に酒を捨てたのをきっかけに、雅志さんは酒を止めた。平成14年の9月だった。酒だけでなく、大量に服用していた処方薬も目に見えて服用しなくなった。高知県断酒新生会の支部は安芸市から四万十市まである。県東部の実家から各支部に出向いた。昼間の例会で処方薬依存の人の体験談を聞き、先輩会員からもアドバイスを受けた。

 平成15年5月。神戸で暮らしていた妻が、義父と一緒に雅志さんの実家にやって来た。離婚届を手にしていた。雅志さんは、「一週間待って欲しい」、と告げた。その夜、嶺北地区で断酒会の例会があった。妻に会員の奥さんの話を聞いて欲しかった。雅志さんは、「一緒に来て欲しい」、と頼んでみたが、「関係ない」、と断られた。雅志さんは寂しく思った。

 以前なら酒を飲むところだが、飲まなかった。「例会の体験発表で、その時のことを言いました。今思うと、その方が良かったのかも知れません」、と雅志さんは振り返る。その後も離婚の件で義父が電話を掛けてきたが、「納得できない。ハンコは押せない」、と答えた。そして、平成16年2月。妻から電子メールが届いた。高知家庭裁判所に離婚調停の書類を提出した、との内容だった。

◆記憶の中には、6歳の娘
 平成16年春、高知家庭裁判所。県東部の実家に住む雅志さんと、神戸で暮らす妻の離婚調停が始まった。妻は、娘の親権も求めていた。雅志さんはこう述べた。「調停を申し立てられた時点で、離婚は仕方ないと思いました。でも、娘の親権が母親側にいってしまうことが納得できなかった」。調停は不成立に終わった。

 翌年、妻は弁護士を雇い、離婚と娘の親権を求めて神戸家裁へ裁判を起こした。雅志さんは、弁護士なしで裁判に臨んだ。「自分は両親と住み、近くに姉夫婦もいる。娘と暮らしても問題はない」、と雅志さんは主張した。その年の夏、判決が下った。離婚は成立し、妻側に娘の親権が認められた。

 平成13年夏、高知市のアルコール専門病棟に入院して以来、雅志さんは自分の娘と会えない日々が続いている。娘は別れた妻と神戸で暮らしている。6歳だった娘は、今春11歳になる。雅志さんは、クリスマスと誕生日のプレゼントをずっと贈り続けてきたが、昨年春の彼女の誕生日を最後にした。

 「離婚調停と裁判を通じて、本人の手にプレゼントがまともに手渡されていないことが分かったので。それに年々、何を贈ればいいか、分からなくなりましたしね」。雅志さんの記憶では、娘は6歳のままで止まっている。

◆仲間と出会えたから
 雅志さんは、アルコール依存症治療の権威である大阪府茨木市の医師にこう言われたことがある。「アルコール依存症になって良かったですね」。近頃、その意味が何となく分かってきた。

 「断酒会の例会で、ありのままの自分を語り、人の話を聞く。人の話を自分に当てはめて考えると、依存症から回復していくことができる。もし、アルコール依存症ではなく、不安神経症として病院に行き続けていたら、処方薬や病院に依存したままで、一生を終えていたかも知れません。だから、良かったと言ってくれたのでしょう」。

 断酒会の例会にはさまざまな境遇の人たちが集う。酒に依存しなければならなくなった理由も人それぞれ。雅志さんの飲酒の根底にあるPTSDを理解してくれる人もいれば、できない人もいる。話を真剣に聞いてくれる人も、そうは見えない人もいる。それを残念に思うこともあるが、雅志さんは、「信頼できる仲間と出会えたことは大きい」、と振り返る。

 大雨や雷雨への不安を紛らわすため、今も薬を飲むことがある。初めての場所、初めての仕事には不安を感じる。しかし、「怖い、怖いと言いながら出掛けていける。『行動障害が減ったやんか』、と先輩会員もいってくれます」。症状は良くなっている。酒は4年前、実家の庭に捨てた日から飲んでいない。

◆不安の海で生きていく
 阪神大震災のPTSDで、自然や現実の社会に不安を感じるようになった雅志さんは、その不安を取り除くために酒を飲み、アルコール依存症になった。依存症になったことをどう思うかと訊いてみた。「依存症にならないにこしたことはない。

 でも、私はなってしまった。酒を止めた年数も、断酒会の入会年数も短いので、えらそうなことは言えませんが。断酒会につながることで、命を絶たずに生きている。そこまで考えると、良かったと思う」。

 これからの生き方を尋ねると、雅志さんは、「分からない」、と首を振った。「だいぶ薄らいだとはいえ、いろんな不安が自然現象から来ているので、自分が再び、いつどうなるか分からないですし」。

 娘の親権を争った時、娘さんの意見は聞けなかった。雅志さんは離婚訴訟のあり方に疑問を感じた。「娘にプレゼントを渡してくれているのか?」、という切実な問いに、妻側の弁護士は笑っただけだった。雅志さんは、いつか娘に自分の想いを伝えたいと思っている。

「すべてを奪われた私が、自分にも不安を感じている。そんな私が、今何を信じられるでしょうか。何に希望を見つけられるでしょうか。何かの拍子に、また同じ目に遭うことはもう耐えられないんです」。雅志さんは笑うこともできた。しかし、心の底にはそんな想いが流れている。(完)
★以上は全日本断酒連盟発行「かがり火 第140号」(2007年7月1日付)より転載