『もっと元気にな〜あれ』(その2) 「全員参加のまちおこし」

(写真は柳谷自治公民館・鹿児島県鹿屋市串良町)—>
2011年9月24日
『もっと元気にな〜あれ』(その2)
 「全員参加のまちおこし」
 (鹿児島県鹿屋市串良町)

 鹿児島県鹿屋市に、住民が一丸となって行ったまちおこしで元気になった集落がある。まちおこしのリーダーには、あるこだわりがあった。それは、行政に頼らない、全員参加のまちおこし。集落の全員を参加させるため、都会で暮らす子どもたちのメッセージを有線放送で伝えた。本心を語る子どもたちのメッセージが親の心を揺さぶった。

 ふるさとを離れ、都会で暮らす娘からのメッセージが親子の距離を近づけ、活動に背を向けていたオトコを熱心な担い手に変えた。集落の子どもたちからお年寄りまで、総がかりでサツマイモを育て、焼酎をつくる。売ったオカネは集落のために使う。住民の心と知恵がつながった全員参加のまちおこしを次に紹介させていただく。

●『幸せそこに まちおこし』
 「ニッポン人・脈・記 ふるさと元気通信①」
 (2009年7月15日付け朝日新聞より引用)

 鹿児島のテレビ局、南日本放送に、スッポンのあだ名をもつドキュメンタリー番組のディレクターがいる。山縣(やまがた)由美子(50)。これだと思ったら何度も、何年も足を運ぶ。桜島に近い鹿屋(かのや)市に実家がある彼女は、めっぽう元気な集落が地元にあると聞いていた。子どもからお年寄りまで、総がかりでサツマイモをうえ、育て、焼酎をつくる。売ったお金は集落のために使っている。集落の名は「柳谷」、通称「やねだん」というそうだ。

 04年、山縣は、あるシンポジウムの取材応援にかり出された。壇上の男の声が響く。「住民が喜んで動いてくれるのは、感動し、仲間意識を持ったときです」。柳谷のリーダー、豊重(とよしげ)哲郎(68)だった。豊重は柳谷の貧しい農家に生まれ、高校を出て東京の銀行に就職したもののUターン。ウナギの養殖のかたわら、出身中学のバレー部の指導につくす。96年、まわりに推されて柳谷の自治公民館長になる。

 そんな豊重を中心に、過疎で希望が見えない集落のまちおこしを、行政に頼らず、住民300人は一丸となって行う。それが柳谷の活動である。取材を進めるうち、山縣の心に疑問がふくらんだ。どんなに小さな集落でもいろんな人がいる。なのに、そっぽを向く人がいない。なぜなの? 疑問をぶつけると、実はね、と豊重は語り始めた。

 ある年の父の日。豊重は、ある女性のメッセージを有線放送で集落中に流した。「すぐ手が出るお父さんでした」、「家出をすると、私の写真を持って警察に走りましたね」、「厳しさ、我慢強さ、そして思いやりを教えてくれました」。

 すると、75歳の男が豊重に抱きついてきた。「娘に憎まれてると思ってた。ありがとう」。柳谷を離れて名古屋で暮らす娘からの、父に送るメッセージだったのだ。活動に背を向けていたこの男は、熱心な担い手に変わった。

 「まちおこしに補欠はいない。みんなに活躍してもらうため、心をゆさぶったんだよ」。バレー部の指導者だったとき、部員全員を試合に出し、とにかく褒めた。その結果、万年補欠の目が輝いてチームは結束し、県下有数の強豪になっていく。そんな経験が、豊重の発想のもとにあったのである。

 行政の補助金に頼らないのなら、自分たちで稼がなくては。豊重たちは、甘くて大きなサツマイモを栽培し、焼酎「やねだん」をつくった。売ったお金で、緊急警報装置を整備、小中学生の塾「寺子屋」も始めた。06年には、全世帯に1万円のボーナスを配った。

 08年3月。集落の総会で、豊重は提案した。「今年もボーナスを配ろうと思います」。住民から、「いらない。寺子屋を永久に続けて」、「福祉に使って」。みんな貧乏しているのに・・・、豊重の涙は止まらなかった。

 しばらく後、山縣の1時間番組が完成した。4年間、汗を流しあい、笑いあう人たちを追った集大成。ボーナス拒否のエピソードにも触れている。石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞など、数々の賞を受けた。「心と知恵がつながれば、すごい力になる。すべてに通じる話だと思うんです。幸せって、手の届くところにあるんです」。(編集委員・神田誠司。本文は敬称略)