『もっと元気にな〜あれ』(その9) 「おれたち、このまま黙って死ねない」

(写真:大分トリニータの本拠地、大分銀行ドーム・大分市大字横尾)->
2011年11月3日
『もっと元気にな〜あれ』(その9)
 「おれたち、このまま黙って死ねない」
 (大分県宇佐市安心院町)

 日本では1960年代以降、重化学工業を中心に多くの労働力を必要とする製造業が発達し、産業と人口が大都市圏に集中した。その結果、地方の町や村では高齢化と後継者不足で地元の産業、とりわけ林業は衰退した。労働力人口や地域活動の担い手が減少し、地方は人口の流出と過疎化の悪循環に陥った。

 同じ頃、1961年、大分県の一村一品運動のさきがけとなった旧・大山町(現・日田市大山町)は、NPC(New Plum and Chestnut)運動を始めた。米の増産や畜産を奨励していた国や県の政策に背を向けて、梅や栗などの果樹栽培による所得向上を目指していた。

 稲作に適さない山間地域を逆手にとって、「梅、栗植えてハワイに行こう」、というキャッチフレーズのもと、収益率が高く、農作業が比較的楽な農作物や果物を生産するようになった。また、梅干しやジュースなどに加工するなど、付加価値を高めて出荷した。

 ところで、大分県の一村一品運動は、1979年11月、大分県の平松守彦前知事が提唱し、住民が誇れる特産品や観光資源を市町村ごとに掘り起こし、地域の活性化を目指す活動である。

 その理念とは・・・・・、(1)「ローカルにしてグローバル」。地域の資源や特性を活かし、特色あるものを国内外で評価されるレベルに育てる。(2)一村一品に何を選び、どう育てるかは地域住民が決め、創意工夫を重ねて磨きをかけていく。(3)そして、一村一品運動の最終目標は、人づくり。一村一品運動には、先見性のある地域リーダーが欠かせない。何事にもチャレンジする創造力に富んだ人材を育成する。

 このように、大分県は自主的な取り組みを尊重し、努力する地域には積極的に支援した。しかし、補助金は出さなかった。県としては特産品づくりの基盤整備、(例えば、物流コストを下げる道路建設)、技術支援や販売促進などの側面支援に徹し、地域が自主的に特産品を育てることができるよう、「人づくり」や「地域づくり」を受け持つことにした。

 大分県の一村一品運動で、まちおこしを実現させた町がある。大分県の北部にある旧安心院町(あじむまち)。当時の旅館業法や大分県の規則では、農家は都会からやってくる観光客を宿泊させることはできなかった。客室の広さは33平方メートル以上、宿泊客専用の台所も必要と規制されていた。そこで町のリーダーは、規制緩和を求めて、何度も平松知事に手紙を書き、規制緩和を訴えた。また、「住民が規制緩和求めている」、と記事に書いてくれとマスコミに頼んだ。

 そんなリーダーの思いが知事を動かし、大分県の規制は緩和された。やがて国も法律の規制を緩和した。リーダーの思いが県と国を動かした、旧安心院町の一村一品運動を次に紹介させていただきたい。

(写真:日本で最初に農村民泊を始めた安心院町の民泊農家)->

『農家の情熱 規制に風穴』
「ニッポン人・脈・記 ふるさと元気通信⑪」
(2009年8月1日付け朝日新聞より引用)

 都会からの観光客が農村に滞在し、住民との交流や自然を楽しむ。いまや日本各地でみられる光景である。かつて、農家は宿泊客を迎えられなかった。狭すぎてダメ、といった法律などの壁があったのだ。13年前、大分県北部にある旧安心院町(あじむまち)のブドウ農家、宮田静一(59)が立ち上がった。「土からモノをつくってるだけじゃ、食えない。おれたちはこのまま黙って死ねない」。この思いが、壁に風穴をあけた。

 宮田は、養鶏農家の後継ぎだった。畜産経営を学んでいた大学3年生のとき、父から宣告される。「養鶏はもうからん。どこかに勤めろ」。頭が真っ白になった。安心院でブドウ農家の入植者を募集している話を聞き、2千万円の借金をして3ヘクタールの農地とブドウの木などを購入。22歳で入植した。

 授粉に失敗し、雨の中すわり込む。雪でビニールハウスが倒壊したことも。どうすればいいんだ。ほかの入植者も苦しみ、相次いで安心院を離れた。ブドウ農家の灯を消したくない。そう思っていた宮田は、92年、町で開かれた過疎フォーラムで、「グリーンツーリズム」という言葉を知った。都市住民を農村や漁村に呼び込めば、収入は増える、と農林水産省が提唱し始めた言葉だった。

 これは使えるかもしれない。農家7軒で民泊を始めた宮田たちは、先進地のドイツを視察した。人口6500人の市で、グリーンツーリズムによる稼ぎは年32億円と聞く。農家に宿泊する客は、農家が運営するレストランや直売所にもカネを落としていた。

 めざすゴールはこれだ。やがて民泊農家は14軒に。宿泊者は年2千人を超えた。でも、「違法」だった。旅館業法や大分県の規制で、客室の広さは33平方メートル以上いるし、宿泊客専用の台所が必要とされていたのだ。ふつうの農家は狭いし、台所は自分たちで使っている。こんな条件、満たせるわけがない。ドイツの豊かな農村を思い出し、宮田は決意する。「規制で縛るのがおかしい。安心院から風穴を開けよう」。

 とはいえ、国や県から何か言ってくるかも、とヒヤヒヤしていた。だから宮本は、あせった。地元の記者に、「規制緩和を求めている、と記事に書いて」とたのむ。取材にやってくる著名人にも訴える。内館牧子(60)は、「安心院の農村民泊はすばらしい」と雑誌で援護射撃をしてくれた。

 「一村一品運動」で知られた知事の平松守彦(85)に、何度も手紙を書く。「規制緩和はあなたしかできません。国に働きかけて下さい」。02年3月下旬、町長がきた。「やったぞ、宮田さん!」。県が独自の規制緩和を町に通知してきたのだ。台所は、宿泊客が農家といっしょに調理、飲食する体験型ならOK。客室も廊下を含めて33平方メートルあればいい。

 宮田はうれし泣きした。翌03年、国は大分県にならう形で法律の規制を緩和した。いま、宮田たちの農家は、年間8千人の宿泊客を受け入れている。全国の民泊農家は2千軒を超えた。宮田はいう。「規制緩和をしてくれた平松さんには、いくら感謝してもしきれない」。

 私は平松に、宮田の思いを伝えた。こんな答えが返ってきた。「住民が始めた運動を育てたいと思っていました。でも、あれは、僕の指示じゃない。部下が判断したのです。報告を受けて、結構じゃないか、と言ったことは覚えていますが」。通産官僚から郷里の知事を24年間つとめた平松はいま、一村一品運動を海外に広める活動をしている。

 毎年、アジア、アフリカを中心に千人を超える人たちが、大分各地を訪れる。「その中で安心院に泊まった人は、うちの国でも民泊を、といって帰っていきます。立派な一村一品運動です。地方が世界を動かすのです」。(神田誠司)

(写真:由布岳にかかる雲海から見た湯布院町の全景)——>
 
 ところで、大分県の、「一村一品運動」がどのように展開されてきたか、平松守彦氏が大分県知事を退任した後、2003年6月18日より毎日新聞に27回にわたって連載された、「地域の自立戦略」の一部を次に紹介させていただきたい。

◆地域の自立戦略⑦
「一村一品」、<主役は地域住民>
(2003年7月4日付け毎日新聞より引用)

 一村一品運動は失敗例もずいぶんある。失敗したら、また新しいものに挑戦すればよい。県の職員には、「やる気のある地域を後押しせよ」、と言ってきた。失敗しても這い上がれば、また新しい道が開ける。要は人材だ。

 起業家精神を持った人材を育てるため、83年に、「豊の国づくり塾」を作った。先生がいるわけでも、教科書があるわけでもない。農家の人や学校の先生、農協の職員が塾生徒で、地域おこしの経験のある人が先生となって塾を始めた。

 そこで、「県は自ら助くるものを助く」を掲げ、努力するものを応援した。でも補助金は出さなかった。そのかわり、特産品づくりの基盤整備、例えば物流コストを下げるために道路を造ったり、技術指導は県が受け持った。こんな一村一品運動で過疎の地域がなくなるわけではない。過疎とは、人、モノ、カネや情報の東京への一極集中と表裏一体で、一村一品で過疎が救えるとは考えなかった。

 リーダーが中心となり、住民みんなで行動したからうまくいっている。いい人材をいかに育てるかが大事だ。舞台の主役は地域住民、行政は舞台づくり。役者が困ったときに照明を上手く使ったり、舞台の装置を美しくして主役を守り立てるなど、黒衣(くろご)(黒子)に徹する

◆地域の自立戦略⑧
「ローカル外交」、<一村一品、海外へ>
(2003年7月5日付け毎日新聞より引用)

 ローカル外交。それは中国・上海から始まった。1983年、当時の汪道涵・上海市長から突然、「一村一品運動とコンピューターの話をして欲しい」、と頼まれた。平松は、通産省(現・経済産業省)電子政策課長をしていた1973年、コンピューターソフトの本を書いたが、汪さんはその本の中国語版を持っていた。

 上海ではどの工場も縦割り工程のため品質がバラバラ。「品質向上のため一村一品をやりたい」、という。農産物も買い上げ制で、品質に関係なく値段が同じなので、結局品質が悪くなる。一村一品運動は品質管理運動。農産物に限らず、工場の生産技術の向上にもつながると評価された。

 セマウル運動(新しい農村づくり)を展開していた韓国でも注目された。ソウル一極集中で、都市部と地方との所得格差は大きかった。1990年12月、当時の盧泰愚大統領に招かれて、公務員研修所で幹部たちの前で講演した。その模様はテレビで放送され、一村一品運動の本も出版された。いまでは、「一村一品」と、「セマウル」のリーダー同士の交流が盛んになった。

 一村一品運動を採り入れるにしても、中国と韓国では目的が違う。中国は品質の改善にる所得の向上で、韓国はリーダーの育成など人づくりが目的。いずれも大分という地域が、相手の地域の実情に合った付き合いをする。これが「ローカル外交」、と思ってもらいたい。

(高原野菜栽培、酪農が盛んな飯田高原・大分県玖珠郡九重町)

◆地域の自立戦略(22)
「地方分権」、<中央の支配に驚いた>
(2003年8月1日付け毎日新聞より引用)

 今でこそ三位一体論など地方への権限や財源移譲、地方分権が声高に叫ばれるようになったが、この回顧録の題名から分かるように、知事として地方自治に携わるようになって、中央によるあまりの地方支配に驚いた。「このままでは地方は埋没してしまう」、と危機感を持った。

 解決策はないかと15年ほど前から考え始め、96年に、「分権・分財・分人論」をジュリスト(有斐閣社刊)に発表した。国と地方の関係を再構築するには分権しかないと考えて、「自治体から見た分権」とは何かを問い、論文という形で著した。

 主張したのは、地方分権には三本の柱があるということ。①分権とは、国から地方への権限移譲。②分財は、財源移譲。③分人は、東京一極集中に対抗するには、地方に若くて優秀な人材が定住できるようにする。この三本柱が地方の自立に不可欠で、将来の道州制、連合国家への重要な道程と確信している。

 「なぜ大分の平松が分権を言い出したのか」、疑問に思う人は多いだろう。だって私は、それまで通産省(現経済産業省)という国家機構の中枢にいた。官僚は権限の縮小、ポストの削減を嫌う。だから、「平松さん、そんなこと言い出したら困る」なんて通産省の連中が言っていた。

◆地域の自立戦略(23)
「地方分権」、<権限と財源の確立を>
(2003年8月2日付け毎日新聞より引用)

 大分に帰り、79年に知事になってみると、国と地方の関係は江戸時代の幕藩体制そのままだった。私の分権論は、そんな体験からスタートしている。知事は東京に行くことが多い。「地方の時代」なんて言われていたが、とんでもない。権限や情報、人までも東京に集中していた。

 道路や港の建設、そして企業誘致、さらに年末の予算獲得の陳情など、仕事をすればするほど東京に行かねばならなかった。2期目になると、年間2ヵ月半も東京にいる勘定になる。私だけじゃない。地方の知事はみな同じ。まるで、江戸時代の参勤交代だ。

 それにもう一つ、高速道路の整備を例にとってみる。財政再建の建前から、効率化、投資効果が重要視され、後進地域への配分は遅れていく。大都市の高速道路は整備されるが、地方は国民合意が得られにくい。すると、人口や産業は、ますます大都市に集中し、日本全体の政治、経済が活性化しない。地方に住んでみての私の実感だ。

 なぜ、こうなるのか。それは、地方に権限と財源がないからだ。地方が財源を持ち、地方のことは地方が決めるという制度を作らないと、いつまでも参勤交代は続き、地方の浮揚はないと思った。だから、「国は通貨、防衛、外交だけをやれ、あとは地方に任せろ」、と分権論、権限移譲を本に書いたり、講演や対談で主張してきた。

 日本は、明治維新で中央政府が先に誕生し、廃藩置県によって県ができた。だから、中央政府に権限が集中し、地方は中央政府の出先という姿をいまだに引きずっている。日本も連邦制が導入され、地方が自主財源を使って、身の回りの公共事業や教育、福祉、生活環境の整備などを行えば、当然東京への一極集中は解消される。

(立命館アジア太平洋大学のイベントホール・別府市十文字原)—–>

◆地域の自立戦略(24)
「地方分権」、<税体系の見直しから>
(2003年8月6日付け毎日新聞より引用)

 先に、地方分権には三本の柱があると言った。簡単に説明したい。先ず分権(権限移譲)だが、国と地方の役割分担を見直し、国の役割は通貨、防衛、外交に限定し、住民に直結する分野は地方に任せ、権限と財源の再配分を実施する、これが原則だ。

 これまで地方の行財政能力の弱さが指摘されてきたが、大分県は95年から県の権限を市町村に移譲してきた。安心院町のグリーンツーリズムなど規制緩和の効果は表れた。

 さらに同年、当時導入された広域連合制度を活用し、全国で初の大野郡広域連合(8町村)もスタートさせた。私は将来、県制度も廃止して全国を7つのブロックに分けるべきだと考えていた。九州は8県で「九州府」いわば、廃藩置県ならぬ、「廃県置州」だ。何も全国一斉に道州制に移行する必要はない。一国二制度で、九州から始めればよい

 次いで、分財(財源移譲)。地方分権を実質的に機能させるには、現行税制を地方が自立できるような制度に変える必要がある。国が地方に回す「三割自治」では、地方の殺生与奪は国の思うがままである。このため、税体系を根本的に変えなければならない。

 注目すべきはドイツで、連邦、州、市町村が平等かつ安定的な財源確保を可能とする租税体系を作り上げていることだ。ドイツ税制の特徴として、共同税がある。売上税、所得税、法人税(租税総額の70%)が中心だが、これについては、日本の地方交付税とは逆に、州が徴収し、一定割合を連邦に交付していることだ。

◆地域の自立戦略(25)
「地方分権」、<目的は住民生活の向上>
(2003年8月7日付け毎日新聞より引用)

 三つ目は、「分人」(人材定住)である。地方の自立には、経済的な基盤が不可欠である。私は、先ず地方都市を育て、活気のある地域経済圏を構築して、若くて優秀な人材を育成することが大事である、と主張してきた。人と地域は一体であると主張した。

 人を育て、地域の持つ潜在能力を引き出すことだ。そのため、住民のやる気を重視した一村一品運動を提唱して、「豊の国づくり塾」、「おおいた平成農業塾」など、多くの塾を作り、地域おこしのリーダーとなる人材の育成に努めた。

 地方の自立は、東京一極集中に対抗できる地域を育てることだ。地方の体力強化(地方力)と、優秀な人材確保なくして、地方自治体の執行能力は生まれない。地方分権は手段であって、目的ではない。本当の目的は、地域住民の生活水準の向上にある。住民の要望にあった行政を行うには、中央集権型システムより、地方分権型システムの方が望ましいからこそ、私は地方分権を進めてきた。

 地方分権には中央官僚の抵抗は強い。族議員の既得権益確保のための反対も多い。地方分権を進めるには、国民的合意が前提だが、そのためにも、「分権、分財、分人」と、それにみあう受け皿としての道州制に移行することが必要だ。私の知事任期、24年間を振り返ると、「地域の自立」を目指した道だった。地域の自立発展に貢献できたことは男子の本懐だが、自立の道はなお遠いとの感が深い(了)

<引用文献>
 ●アジ研選書3「一村一品運動と開発途上国」(松井和久・山神進編、2006年10月)
 ●毎日新聞(2003年6月18日付より8月9日付まで)、全27回の連載記事「地域の自立戦略」
 ●NPO法人・大分一村一品国際交流推進協会のホームページ
 ・「一村一品運動の背景・進め方・理念」、「一村一品運動の実践」
 ・「一村一品運動の成果」、「一村一品運動を通じたローカル外交」
 ●朝日新聞(2006年5月8日付け)・「一村一品運動」(キーワードの解説)