『社会のために役立ちたい』(その3) <身近な場所で社会貢献>

(写真は満々と水を湛えた百秋湖・山形県長井市)—>
2011年11月25日
『社会のために役立ちたい』(その3)
<身近な場所で社会貢献>
 
 全国川西会議は平成9年11月、川西という名をもつ自治体一市三町が、住民や行政など幅広い分野における交流を通じて、相互に豊かなまちづくりを目指すことを目的に設立された。参加自治体は、山形県東置賜(おきたま)郡川西町、新潟県旧・中魚沼郡川西町(現・十日町市)、奈良県磯城(しき)郡川西町、そして兵庫県川西市。

 そのうち、山形県川西町は米沢盆地の中央に位置し、豊かな水田地帯となだらかな丘陵地帯が続く。県内有数の米どころとして知られ、米沢牛の主産地としても有名である。その川西町にすこぶる元気な高校がある。山形県立置賜農業高校。校訓は、質実剛健、誠実明朗、実践奉仕。

 農業クラブでの活動を通じて、地域農業の技術発展に貢献する。食料・生産、環境、文化・生活など、各部門での成果を、日本学校農業クラブ全国大会で意見発表する。置農のクラブ活動は、製造業や小売業まで巻き込み、行政とともに農業の発展や環境保全に貢献している。

 次に、大阪市天王寺区の寺院。市民のために本堂を開放する。葬式をしない寺として知られ、多くの若者が訪れる。1997年、一人の僧侶が廃寺同然の寺を再建した。寺は如何にあるべきか。ひとりで考えてもいい答えは浮かばない。そこで、多くの人の知恵を借りることにした。寺の在り方を追い求め、目指したのは地域に開かれた寺だった。演劇祭や講演会などの催しに若者たちが集い、語り合う。

 かつての日本では、地域の問題は檀家と住職が一緒になって考え、解決してきた。寺は人々の交流の場であり、地域と深くつながっていた。また、寺の住職は、苦しみや悩みなどを聞いてくれるよき相談相手でもあった。しかし、都市化、高齢化などが進み、寺と檀家、僧侶と一般の人との関係が薄らいできた。

 その一方で、死者をどのように見送るかについての関心は高まっている。そして死後、自らがどう葬られるのかという不安もある。寺は死生観を学ぶ場でもある。長引く景気の低迷で人々が孤立していく世の中で、それぞれの人生を見つめる場として再認識されている。寺は地域の知恵袋であり、交流の場でもある。いま再び、身近な社会貢献の場として見直されている。

 職場や家庭のすぐ近くにも、自分を生かせる場はあるのかもしれない。そこで、地元の農業や環境と対峙して、元気なまちづくりに貢献する山形県の農業高校と、市民に開かれたお寺として年間3万人もの若者が訪れる大阪市天王寺区の寺院を紹介させていただきたい。

 ところでもうひとつ、是非紹介したい高校がある。山形県の南部に位置する長井市は、東芝の工場と多くの町工場がある企業城下町だった。県立長井工業高校は、そこへ人材を供給してきた。OB会の会長が大切にしている写真がある。そこには長井の人たちと故・坂本九氏が写っている。長井工業高校と同氏にまつわるエピソードも併せてご一読願いたい。

(写真は雪灯り回廊祭りでの長井小学校)—–>
『名刺をもう一枚③』
<学校や寺で結ぶ縁>
(2011年2月22日付け朝日新聞より引用)

 ●生徒と菓子作り
身近な場所で、社会貢献を始める人が目立ち始めた。学校で育てた農産物を使った菓子を売り出し、地域を元気にしよう・・・。山形県川西町の県立置賜(おきたま)農業高校の生徒が2008年、そんな狙いで、大福を考案した。生徒が校内で育てたコメの粉を皮に使い、餡(あん)の原料には、同校産のカボチャなどを選んだ。生徒の着想を、町内の菓子店、「銘菓の錦屋」で働く卒業生の太田浩美さん(47)が形に仕上げた。

 08年秋、太田さんは突然、置賜農高の教員、江本一男さん(57)に声をかけられた。「生徒が考えた菓子を作るのに力を貸してほしい」。太田さんは在学中、江本さんに教わり、長男も同校を卒業した。しかし、学校への「貢献」は初めてだった。

 生徒のアイデアをもとに、太田さんが作った大福は、町の催しなどで評判となり、これまでに1万2千個も売れた。太田さんは、「後輩たちの企画を失敗作にはできない、と緊張した。仕事とは違う充実感があった」、と話す。

 創立115年の置賜農高は長年、地域に農業の先端技術を伝えてきた。農家自ら作物を加工し、販売する流れが強まるなか、置賜農高は近年、製造業や小売業など、大勢の支援者を呼び込んでいる。

 2月5日に開かれた置賜農高の活動を報告する集いには、卒業生や地元の自治体職員ら、学校を支える人が県内各地から駆けつけた。出席した太田さんは振り返る。「卒業から30年。後輩の力になれることは、こんなにもうれしいことなんですね」。

(写真は應典院の正面の外観・大阪市天王寺区下寺町)—>
●命語るブログ
 大阪市の繁華街にある應典院(おうてんいん)は、「葬式をしない寺」として知られ、年間3万人もの若者が来院する。本堂は音響や照明施設を備え、市民に開放。若手劇団が演劇祭を開くほか、生や死、若者の働き方をテーマとする講演会などもあり、人々が語り合う。寺に設けたNPOが会費を集め、運営を担う。

 同じ敷地内にある寺で生まれ育った僧侶の秋田光彦さん(55)が1997年、廃寺同然の寺を再建した。ひとりで知恵を絞っても妙案は浮かばない。広告会社の代表や企業の研究員、大学教員らと話し合って計画を練った。目指したのは地域に開かれた寺だ。

 この年、神戸で児童殺傷事件があり、金融機関の経営破綻も相次いだ。地域や社会を支えていた安心感が崩れていくのを感じていたからだ。「寺子屋」、「駆け込み寺」という言葉があるように、寺にはかつて人々が集い、つながりあった歴史がある。秋田さんは、「原点に立ち返ろうと考えた」、と振り返る。

 「みとりびとは、いく」。秋田さんは09年夏、そんな名前のブログを開設した。生や死をともに考える場をつくろうという狙いだ。終末期医療に携わる医師や葬儀会社員らを取材した報告を載せ、催しの情報も発信している。このブログは、秋田さんのほか、大手情報機器メーカーの健康保険組合で働く浦嶋偉晃さん(49)らも執筆する。

 浦嶋さんは、住み慣れた自宅で最期を迎えられる、「在宅ホスピス」の普及に取り組むなか、秋田さんに出会った。地域に開かれた寺の在り方にひかれ、終業後や終末に應典院を訪れた。催しの設営や受付を手伝い、應典院への関わりを深めていった。

 浦嶋さんは難病や勤務先の倒産を経験している。悩みや苦しみを抱えて寺に来る人と関わるうち、秋田さんからブログの執筆に誘われた。ブログには、様々な講演会の報告を記すほか、自身の死生観を語ることもある。宗教家ではない。特別な技能もない。でも、僧侶とは別の視点に親しみを覚える。そんな声が届いている。

 浦嶋さんは、「自分が必要とし、誰かに必要とされる。そんな縁を結ぶことができて、幸せです」、と話す。かつて、学校や寺は地域の知恵袋であり、交流の場でもあった。いま再び、身近な社会貢献の場として見直されている。職場や家庭以外のすぐ近くにも、自分を生かせる場は、あるのかもしれない。(小室浩幸)

(写真は冬を待つあやめ公園・山形県長井市)——>
『見上げてごらん技能の星』
「ニッポン人・脈・記 どっこい町工場①」
(2011年1月4日付け朝日新聞より引用)

 山形県南部の盆地にある長井市は、白ツツジ、アヤメなど、四季の花がうつくしい。晴れた日の夜は、満天の星がひろがる。この地に精密部品の「吉田製作所」をおこして40年。社長の吉田功(69)は、定時制高校にかよっていたころ、夜空を仰いでは口ずさんだ。♪見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が・・・。映画などで夜学生を演じた坂本九が歌い、大ヒットした。定時制の生徒たちは、それぞれの夜空の下、この名曲にどれだけ励まされただろう。

 吉田がアルバムを見せてくれた。坂本が長井の人たちと写る、1982年3月6日の写真があった。県立長井工業高校定時制が20年の幕をおろした翌日、さいごの卒業生8人を励ます会をひらく。その会に坂本が来たのだ。「私はOB会の会長をしていてね、九ちゃんに来てもらいたかった。お金がないと説明したら、ノーギャラでOKだった」。

 坂本と同じ41年生まれの吉田は、中学を卒業して集団就職で東京に出るが、なじめずに数年で戻る。「番長」として長井工高をしきった。30歳で始めた小さな工場は、敷地面積6千平方メートル、従業員24人にまで大きくなっている。

 励ます会の前夜、吉田は長井に入った大スターと飲んだ。下積みの苦労話を聞き、ますますファンになった。そして当日、卒業生と先生、そしてOBたちは、坂本と一緒に歌った。♪見上げてごらん夜の星を ボクらのように名もない星が・・・。歌いながら吉田は思った。九ちゃん、また長井に来てください。今度は、ちゃんとギャラを払います。

 3年後、その思いは散る。日航機墜落による坂本の死とともに。有名人が集まる東京での葬儀で、吉田は遺影に誓った。九ちゃん、名もないボクらのために、ありがとう。ボクは尽くします、地域のために、長井工高のために。

 坂本の葬儀から9年たった94年。吉田はこんな話を聞いた。長井工高に統廃合問題がおきている。廃校になるかも。長井市は、東芝の工場を頂点に、町工場がむらがる企業城下町だった。そこに、長井工高は人材を供給してきた。ところが、円高などで東芝が身を引く。城下町の行く先が危ういから長井工高はいらないのでは、というのだ。

 吉田は、県庁、市役所、地元の商工会議所などで、ことあるごとに説いた。廃校になると、卒業生をあてにしている町工場がつぶれる。人口3万人の長井市は崩壊ですね。私たちの最大の資源は、長井工高なのです。全日制も含めた同窓会の会長として、企業をまわり、長井工高への支援を取り付けていった。

 「強引にカネを出させたこともあったから、私は悪人と思われてるだろうな」。地元企業、自治体、学校がひとつになった。企業は、生徒の実習を引き受ける。もちろん、吉田の工場でも。市役所は、国や県の補助が取れそうなら請求しまくる。吉田は、補助金洗い出しの参謀だ。そして生徒たちは、技能資格の取得に力をいれた。

 統廃合の話が消えても、生徒たちは手を抜かなかった。単線鉄道の駅舎や、田んぼで活躍するロボットをつくる。2009年、長井工高は政府の、「第3回ものづくり日本大賞」に輝く。先月まで生徒会長だった3年生の横沢諒(18)は、アーク溶接など10以上の資格をもつ。「受賞は僕らの誇り、自信です」。生徒たちは、子どもたちのおもちゃを修理するなど、地域への恩返しを欠かさない。

 吉田は喜んでいる。「受賞で、天国の九ちゃんに、やっと一つ報告できた」。でも、心の中に、モヤモヤしたものが残っているという。ノーギャラで来てもらった後ろめたさなのか。12年の秋に、長井工高の50周年を記念する式をひらく。その委員長をつとめる吉田は、坂本の妻で女優の柏木由紀子(63)を呼ぼうと思っている。もちろん、ギャラを払って。実現させてください。きっとモヤモヤは消えると思います。(中島隆、文中敬称略)