(写真は刈り取った稲を架けるはさぎ並木・新潟市秋葉区満願寺)
2012年1月3日
『人生のエンディング』(その3)
「私流の最期を迎えたい」
命には限りがあり、人は誰でも最期を迎える時がやってくる。その時がいつかは分からない。分からないから、その不安と恐れに蓋をして毎日を生きている。昨年2月、母親を見送った。早朝、仏壇の前に座ると、今まで何気なく暮らしていた日常が、今日は何をしようかと一日々々を区切って暮らすようになる。
しばしば、特別養護老人ホームで最期を迎えた母親について振り返ることもある。果たして施設で過ごした生活に満足していただろうか。言い残したいことはなかったか。施設で母親の最期をみとった時を思い出しながら、私の最期を想像する。死に場所はどこなのか。自宅、あるいは介護施設か病院か。元気で寝つかずに、家族に感謝のひと言を残してこの世と別れたい。
2002年の春、奈良の実家で一人暮らしをしていた母親を我が家に引き取った。当時、私たちは二人とも働いていたので、昼間は一人になる。時々、近くのスーパーへ買い物に出かけるが、やがては自宅への帰り道を忘れるようになる。
市役所の広報車を見つけると、タクシーを停めるように手を挙げて、家まで連れて行くよう頼んだこともあった。また、交番に飛び込んでは、「私の家はどっちでしょうか」。さいわい住所は覚えていたので何とかなったが、お巡りさんを随分てこずらせていたらしい。
夜は頻繁に起き出してトイレにたったり、廊下を歩き回ったり。居間で何やら探しものをしていたことも。今まで住み慣れていた実家とは勝手が違うのか、とにかく家の中を歩き回っていた。そんな母親の行動を心配して、やがてカミさんが添い寝をするようになった。
しかし、昼間の一人暮らしが不安になってきて、我が家近くの介護施設でデイサービスを受けることにした。連日の添い寝、汚れたトイレや床に拭き掃除、として母親の入浴介助、カミさんには随分助けられ、今でも感謝している。
それから約一年、とうとう母親が我が家で住めなくなる時がやって来た。2003年5月、骨盤を骨折して救急車で近くの病院へ搬送された。慣れない入院生活で、認知症は進んでいった。夜はひとり言。点滴治療のチューブを取り外すようになってからは、手足をベッドに拘束された。医者からは、「退院後は自宅で暮らすことは無理なので、今から老人の介護施設を探しておくように」、と告げられた。
退院後、我が家近くのグループホームに入所した。川西市内の特別養護老人ホーム(特養)でお世話になりたかったが、入所を希望する人が200人以上待機中と聞かされて諦めた。特養へ入る順番待ちをする余裕はなかった。グループホームの費用は毎月20万円を超えた。
グループホームに移ってからは悠々自適に暮らしていた。ヘルパーさんがこまめに動いている。母親が好きだった戦前の歌謡曲を収録したカセットテープも用意してくれた。ホームの庭には家庭菜園があり、母親は野菜作りを楽しんでいた。春はお花見、夏は花火大会、秋は近くの公園やお寺までの散歩。季節ごとにレストランでの食事会や半日ドライブ。職員に連れられて出かけることを楽しみにしていた。
(写真はメタセコイヤの並木道・滋賀県高島市マキノ町)——>
当時、私は会社に勤めていたので週末になると帰宅途中、グループホームに立ち寄っていた。しかし、いつ頃からか、会話が通じなくなってきた。2005年の暮れ、母親の介護を理由に会社を辞めた。月に数回は、ホームで暮らす母親を訪ねた。そして、2度目の骨折で再び入院。認知症はさらに進んだ。
2008年8月、市内の老人介護施設から突然電話がかかってきた。母親の入所について打ち合わせしたいので来てほしいとのことだった。すぐさま施設に向かい、管理者から説明を受けた。特養が満室なので、取り敢えずショートステイサービスで入所し、その後特養に移るとの説明であった。ともあれ特養に入所できることになった。
特養で暮らすにあたり、個室を希望した。同室の方に気兼ねなく母親といろんなことを話したかった。ただ、入所した時は、私を見てもかすかに息子と認識できる程度゛だったと思う。自力での歩行は難しく、部屋には車椅子が用意されていた。春や秋の穏やかな日和の日は、車椅子に乗った母親と施設の外に出て、散歩を楽しんだ。
時折孫(母親のひ孫)と連れだってホームを訪れた。しかし、母親の反応は鈍く、孫を見ても笑顔はなかった。同じフロアーのお年寄りが孫を可愛がってくれた。本当は母親に喜んでもらいたかったのだが、残念である。人生の最期へ向かう命とこれから成長していく命。家族の中で受け継がれていく命の重なりを感じた。
2010年の暮れから、母親の様子が変わってきた。昼間から眠ることが多くなり、食事の量もめっきり少なくなった。これからの介護について、施設の管理者と話し合う機会が増えていった。「今日、医師が往診に来る」、と管理者から連絡を受け、私も施設へ行った。医師から母親の症状を聞いた後、これからの治療について意見を求められ、私の願いを伝えた。
「母親がどうしてほしいのか、母親の本意は分からない。ただ、息子として鼻からチューブを通したり、お腹に穴を開け、胃へ管を入れて栄養を送る人工栄養法は苦痛を与えるだけで、苦痛を伴う延命治療は望まない。ここまで精一杯頑張って生きてきたのだから、もう思い残すことはないと思いたい。本人も自然に死へ向かうことを望み、苦痛を伴う治療は選ばないだろう」。
母親が逝ってから約10ヵ月が経つ。本来は家族と暮らすのが一番幸せであるが、グループホームや特養と、施設での暮らしに母親が心から満足していたか、今もって気になっている。一方で、自宅での排泄や入浴、食事などの介護(介助)は、家族にとって心身の負担は大きく、在宅介護の厳しさを知った。
さらに、認知症や寝たきりの家族を自宅でみとる場合、いつ来るか分からない死の時まで介護を続けねばならず、その辛さは想像を超えた厳しさであろう。在宅の場合、介護する家族を支える社会的な仕組みがあってもいいのでは。私も自分らしい最期を迎えたいと願っている。死は必ずやって来ると先ず腹をくくって元気に暮らしている今から備えたい。
そこで、家族が人生の終わりを迎えた時、周りの人たちがどう支え合ったのか。大切な人を失った悲しみをどう受け止めたのか。そんな経験と思いを掲載した朝日新聞の記事を次に紹介させていただきたい。そして、長びく不況と東日本大震災の影響で混沌とした社会の中で、自分らしさを求めて、自分で葬儀を準備する人たちがいる。「美しい衣装で逝きたい」と、自分で葬儀を準備する人たちを紹介させていただく。
(写真は大根の花と桜並木・鹿児島県鹿屋市吾平町麓)—->
『備える・人生のエンディング(読者から)』
<大切な人の最期だから>
(2009年2月18日付け朝日新聞より引用)
8月から掲載した、「備える・人生のエンディング」には、全国から約350通のお便りをいただきました。人生の最後をどう支え合ったか、大切な人を失った悲しみをどう受け止めたか。経験と思いを紹介します。
◆≪みとり≫
東京都小金井市の主婦、高橋信子さん(46)は2年前、母を実家でみとった。「最期の瞬間まで家族が協力し合って見送れた。母らしい時間を過ごせ、私もうれしかった」、と振り返る。良い在宅ホスピス医やケアマネジャーにめぐりあえた。それでも、「3ヵ月の介護は想像以上に大変だった」、と言う。在宅で大丈夫か、家族で何度も話した。結論まで1ヵ月。子どもを抱え、母への思いと自分の生活との間で揺れた。
結局、子連れで実家に転居した。24時間の見守りや2時間おきのトイレ、食事の介助が続き、心身への負担は大きかった。父は腰を痛めて介護ができなくなった。「在宅医療の態勢は整ってきたが、介護者を支える仕組みがあってもいいのではないか」、と高橋さん。
鳥取県米子市の鈴木早苗さん(63)は昨年、夫の92歳の父をグループホームでみとった。母を病院で見送った経験から延命治療はしないと決めていた。このホームでは初めてのみとり。職員も戸惑っていたが、往診してくれる医師が見つかり実現した。食欲がなくなり、寝ていることが多くなってからは、管理者や医師と、「救急車は呼ばない」などを確認した。
点滴を絶った後は、枯れていく感じになった。「最期はすーっと息がなくなり、こんなに安らかな死に対面したのは初めて」、と鈴木さん。看護師と職員が体をふき、入居者全員が搬送を玄関で見送ってくれた。「ホームには本当に感謝している。医師が、『応援するから』と関係作りをしてくれ、助かった」。
愛知県犬山市の主婦(54)は、「最後は自宅でとの父の願いはかなえられなかったが、結局は良かったと思います」、と言う。救急車で運ばれた父は末期の肺がん。余命は病院で1ヵ月、在宅で1週間と診断された。在宅だと24時間対応できる医師、酸素ボンベ、複数のヘルパーなどが必要と言われた。
母は認知症で要介護状態。医師から、「自宅では難しい」と告げられた。それでも悩んだが、看護師から、「ゆっくりお別れできるよう、お母様の気の済むまでお父様のそばにいられるようにしてあげて下さいね」と言われ、救われた。母は毎日病室に来て一緒に過ごさせてもらった。
車いすの母と、ベッドの父が、お互いの手をとりながら、うとうとと寝ている姿を見ながら数日後、最期の時を迎えた。「人工呼吸器をつけずに自然に」との意思も尊重してもらえた。「『どこで』より『ケアの質』が大切なんだと実感しました」。
(写真は千歳通りの桜並木・東京都世田谷区桜丘2丁目)—->
◆≪死後≫
1年前に夫を亡くした埼玉県の大澤和子さん(77)は、「毎日寂しくて恐ろしくて、特に夜は耐え難かった」と言う。そんな時、夫と知り合った頃に交わした50年前の手紙を見つけた。毎晩、古びた便箋を読み返し、夫をしのびながら眠った。
多くの手続きやお礼、墓参りなどが一段落した4ヵ月後、倒れて入院した。夫の死後初めて、夜、人の気配を感じながら眠ることができた。それまでは夫の傍らに行くことばかり考えていた。退院した時、「この世にまた戻れた」と感じた。
そして、「お父さんに手紙を出そう」と思いついた。ノートを用意し、毎晩夫に語りかけるように1ページ。その日のできごと、感じたこと、同意してもらいたいこと、教えて欲しいこと・・・。不思議と毎晩書くことが浮かんだ。夫と「会話」するひとときがいま、救いになっている。
妻を亡くした東京都武蔵野市の近藤公夫さん(86)は、「寺のお勤めをしても故人から反応はなく、人に話してもむなしさは増すばかりだった」という。その気持ちをそのまま文章に書くことにした。故人を思い出すたび、話題になるたび、夢に見るたびに、ワープロで打った。読み返して妻をしのんでいたが、自費出版し知人に配る予定だ。「法事の代わりに、本を声に出して読む会をしたい」。
奈良県生駒市の合田禮子さん(70)の夫の葬儀は、故人の希望で家族葬にした。友人や知人には事後報告になったが、温かい便りやメールが寄せられ、追悼文集として大切にファイルに収めた。旧友からの手紙は、夫の学生時代の暮らしぶりや交友を伝えてくれ、代え難い宝物になっている。合田さんは、亡くなるまでの3年間をまとめた写真入りのしおりをパソコンで作り、お礼の品とともに送った。「故人に会えたようだと、喜んでもらいました」。
◆≪遺影≫
静岡市の主婦、田中千香子さん(44)は、2年前の父の葬儀で葬儀社が用意した遺影に失望した。服を黒のスーツに修整されていた。肩幅や体格が微妙にずれ、印象が違った。何とか元に戻してもらったが、不満は大きかった。
6年前に夫を亡くした神奈川県三浦市のカメラマン、中村瑠璃さん(38)は遺影がなくて困った。二人とも写真嫌い。めいを撮った写真に偶然笑顔で振り返った夫が写っていた。その後、仕事で撮った写真を、「遺影にするよ」とたびたび言われた。グラス片手だったり、消防団の訓練だったり。自然な写真だ。3年前に遺影撮影サービスを始め、行事の時などに顧客のところへ行く。
ある女性は趣味の絵画に没頭する姿を撮った。目線は下向きだが本人が気に入り、遺影として使われた。再婚して娘が生まれてからは、自分も積極的に写るようになった。「自分が亡き後、私らしい私の姿を残したい。改まって写真をとらなくても心構えなんだと思います」。日本写真館協会によると、この数年、生前に遺影を撮る動きが出始めているという。
(写真は国立市の桜通り・東京都国立市富士見台1丁目)—->
『おしゃれに召されたい』
<花柄、刺繍・・・私らしい死に装束>
(2011年12月13日付け朝日新聞より引用)
美しい衣装で逝きたい・・・。そんな思いをかなえる、おしゃれな死に装束が注目されている。花柄や色とりどりのドレス。愛らしい刺繍をあしらう着物。生地もこだわった一着に、買い手も作り手も思いを込める。
◆最後の正装
まるで白無垢のよう。振り袖の襟元には、ピンクの桜刺繍。タンスにしまわれた着物は、福岡県大野城市の女性(69)が半年前に買い求めた死に装束だ。25歳で結婚。式では和服を着ただけ。連れ添った夫を2年半前にみとった。「おしゃれをすると喜んでくれた。あの世でも夫と結婚したくて、白い振り袖を選びました」。
作ったのは福岡市中央区の「ルーナ」。「さくらさくら」のブランド名で、2007年に販売を始めた。死に装束はふつう白一色の和装で、数千円から3万円ほど。高いものは10万円以上する。ルーナでは、花柄や胸元に桜を散らした白いドレスなど、男性用を含めて9種類をそろえる。3万〜25万円するが、注文は全国から月約70着。この1年で自分用が半数を超えた。
中野雅子社長(47)が始めたのは、父親の死がきっかけだった。「おしゃれだったのに、最後の服はみんなと一緒。父らしさがなかった」。あの悔いをなくし、別れの儀式を手助けしたいと取り組んだ。亡くなって時間がたっても着せやすいよう、生地をたっぷりとった。「業者任せでなく、遺族が着替えに加われることを考えた。温かい気持ちで送り出せるように」。
札幌市中央区の、「オートクチュール ジョチカジェル」は06年から、「旅立ちの衣装」の名で販売する。開くと一枚の布のようになり、体の下にくぐらせて紐などでとめる。首筋の老いはハイネックで隠す。胸に下げて六文銭を入れる袋はポシェットにした。「この世で最後の姿である衣装。ウエディングドレスより大事だと思います」と、鳴海恵美子社長(38)は話す。
滋賀県草津市の、「アイイリス」が作るのは、「ラスティングドレス」。山本和代・代表(51)が注文に応じて生地を選ぶオーダーメードだ。顧客はすべて女性で、「葬儀で人に見られる姿も美しくありたい」という声が多いという。山本さんも、「すてきな姿を家族の思い出に残してもらいたい。最後の正装として選んでほしい」と語る。
◆自分で準備
死に装束へのこだわりは、「私らしさ」の追求とともに、自分で葬儀を準備する時代になってきたからだと専門家はみる。日本葬送文化学会長の八木澤壮一・東京電機大名誉教授は、「昔は地域社会が葬儀を仕切った。会社の人間関係も今より強く、葬儀をよく会社の後輩が手伝ったりしたものだ」と言う。
ところが、人間関係の変化や長寿化で、とくに2000年以降、葬儀は自分で用意しておくものになってきた。「葬儀や相続などを書き残すエンディングノートの流行や家族葬の増加もその流れです」。
昨年夏、大阪市で、「終活(しゅうかつ)ファッションショー」を開いた作家の安田依(い)央(お)さん(45)は、自分の最期や葬儀について考えをまとめることは、「大人の作法だ」と考える。安田さんは司法書士として、遺言や相続をめぐって傷つけあう人たちを見てきた。「最後に何を着るかを決めるのは、自分はどんな人間で、どんな一生を送ってきたかを考えること。衣装から、『死の準備』を考えてみませんか」と話す。(山下知子)