『人生のエンディング』(その5) 「かかりつけの住職をみつけては」

(写真:岡本寺の本堂・川西市平野1丁目)——>
2012年1月13日
人生のエンディング(その5)
「かかりつけの住職をみつけては」

 奈良で住んでいた母親が、私たちと暮したのは僅か一年余り。しかも、老人介護施設に入所してからは、我が家に戻ってきたのはたった一度だけ。それ以来、認知症になった母親は我が家に戻ることはなかった。それだけに、昨年2月に亡くなった母親を親しい身内だけで見送りたいと、通夜は我が家ですることにした。

 母親の最期が近いと悟った時は、さすがに慌てた。母親の死後のことについては何の準備もしていなかった。日頃から寺院との係わりもなかったので、行き当たりばったりで葬儀社と寺院を選んでしまった。医者もそうであるが、日常の悩み事を相談できる、「かかりつけ」の住職を見つけておくべきだったと痛感した。

 1971年、就職のため親元から離れ、結婚して有馬や川西で住むようになってからは、寺院との係わりがなくなった。自宅には仏壇がなく、奈良で暮らす両親が営む供養や墓についての関心も薄くなっていった。仏事といえば、春と秋の彼岸に墓参りで奈良に帰るぐらいで、お寺は人が亡くなった時にだけ世話になるものと思うようになった。

 ところで、「お彼岸はお寺へ行こう!」と、地域の人と人のつながりを願って元気に活動している寺院を地元で見つけた。能勢電車の平野駅東側、南へ歩いて4分の所にある観瀧山岡本寺(かんりゅうざんこうほんじ)。「曹洞宗であり、皆の衆(宗)」、と本堂などで多彩な催しが開かれる。

 目指すは、地域に開かれた寺。写経会や座禅会、太極拳も学べるほか、自分らしい老後や釈迦と仏教など、生と死をテーマとする講演会もある。さらに週3日、子育て中の母親や孫育て中のジイジやバアバのために大広間を開放している。

 また、川西市内の仏教界の動きとして、川西市仏教会は年に一度、川西市文化会館やみつなかホールなどで、「ほ〜わの会」を開催している。そこでは、各宗派寺院の住職による法話を聞くことがでる。私は団塊の世代として64年間生きてきたが、地域とのつながりも薄く、これから如何に生きるべきか、悩むことがある。今年はぜひ「ほ〜わの会」に参加して、住職の法話を聞いてみたいと思っている。

 次に、上述の内容とは違った話になるとお断わりした上で、葬儀と墓、僧侶と一般の人との関係、さらには、「仏教の役割とは何か」をめぐって、宗教学者と寺院の代表者との対論を掲載した朝日新聞の記事を紹介させていただきたい。その対談記事を読み返して、昨年母親の葬儀で世話になった住職と、奈良で住んでいた頃、月参りの途中よく我が家に立ち寄っていた、「お寺のお坊さん」を思い出した。

(写真は、本堂の背後に広がる岡本寺の寺院墓地)——>
『葬儀は誰のため?』
(2010年10月18日付け朝日新聞より引用)

 ●宗教学者の島田裕巳さん <人情に合った葬られ方 発想を>
 ●「應典院」の秋田光彦代表 <寺院と檀家の信頼関係が大切>

 「葬儀は、要らない」(幻冬舎新書)などの著書で、日本の葬儀のあり方に対して問題提起をしている宗教学者の島田裕巳さんが葬儀や「葬式仏教」をめぐり、このほど大阪市天王寺区の寺院、「應(おう)典院(てんいん)」で代表の秋田光彦さんと対論、活発な議論が繰り広げられた。(大村治郎)

 まず、島田さんは、「葬儀をめぐる状況は大きく変わってきている」と指摘した。会葬者を呼ばず近親者だけで葬儀を営む家族葬、葬儀や告別式をせずに火葬する直葬(ちょくそう)が広がってきている現状などから、これまでのしきたり通りに葬儀をする根拠は薄いと感じる人が目立ってきているという。

 「死後、自らがどう葬られるかという不安も広がっている」。「永代供養料、墓石、管理費、葬式と合わせてどれだけの額になるのか、悩む人も多い」とも話した。「古希と言う言葉があるように、かつては70歳まで生きることがたいへん珍しいことだった。しかし、高齢化は進んでいる。家族は介護にお金を使い、さらに葬式や墓に労力やお金をかけねばならないのだろうか」。

 島田さんによれば、江戸時代には家の墓を持たない人も多かった。しかし、戦後、各家が墓をつくるようになった。技術の革新で、墓石に使う石を切る技術も発達し、マイカーの普及、交通の発達で墓地の郊外化も進んだ。そうした社会変化の上に葬送習俗が成り立っている。景気が右肩上がりの時代ならよかったが、デフレ社会で経済的な余力がなくなってきた。立派な墓をつくっても、墓を維持する後継ぎがいないという問題も出てきたという。

 「葬儀は誰にとって必要なのか。寺は葬儀によって経済的に支えられてきたが、仏教は生きている人のためにあるべきではないのだろうか。葬式、戒名、墓で困っている人の悩みを解決してこその仏教ではないのか。人情に合った葬られ方を発想すべき時に来ているのではないか」と問題提起した。

 これに対し秋田さんは、「寺院は地域の中で維持されてきた。寺と地域の人が話し合い、折り合いをつけながら、今ある葬儀の形式にたどりついた」と反論、寺院と檀家との信頼関係が大切だと強調した。

 「関西には僧侶が家庭を訪ねて供養をする月参りの風習がある。それに対し、東京などでは寺と檀家とのコミュニケーションが少ないのではないだろうか。だとすると、葬儀や供養のトレーニングもなくなり、葬儀だけが突出し、目立つのはお金のことだけになってしまう」と指摘した。

 「仏壇があれば、僧侶は毎月、家庭に行く。この月参りは大きなケアになりうる。世間話をしながら、人々の日々の不安、死後の不安に向き合うお坊さんは関西にたくさんいる。そのかかわり続ける仕組みを社会的な形にどう変えていくかだ」とも述べた。

 秋田さんによれば、浄土宗には「五重相伝」という、信徒になるための「道場」があり、それを終えれば生前戒名が授与され、いわゆる「戒名料」は発生しないという。 「葬儀や墓の問題は、自分だけでは成り立たない。ご先祖から子孫へという長い時間枠の中で語られるべきではないか。墓は死者と生者が向き合うだけの場所ではなく、長い過去と未来が命のつながりとして連続している」とも指摘した。

 ただ、島田さんも指摘するように、都市化、高齢化などが進み、景気が低迷する中で、寺と檀家の関係、僧侶と一般の人との関係が薄くなってきている現状も否定できないだろう。その一方で、死者をどのように見送るかについて関心は高まっている。従来の葬儀や「葬式仏教」のあり方に批判的な島田さんだが、「僧侶と在家の人々が一緒に問題解決のために考え、動くことが重要だ」とも指摘した。

 秋田さんも、「寺は檀家と住職が一緒につくっている。寺は死生観を学ぶ場でもある。お坊さんはそういうことを説明する能力を高める必要がある」としたうえで、「お坊さんはもっと社会に出て議論しなきゃいけない。議論の場を作らないと仏教界は良くならない」と述べた。(了)