『我が青春の歌』 <時には母のない子のように>

(写真は兵庫県猪名川町柏原地区の里山風景)—–>

◆不機嫌な時代に流れた歌
<母への愛と憎しみ>
 東京・六本木のCBSソニー・スタジオ。面接の4ヵ月後の1968年10月、カルメン・マキさんの「時には母のない子のように」の録音が進んでいた。ハーモニカの切ない音に続いてマキさんが歌いだした。「ブルッと悪寒がした」。プロデューサーの酒井政利さん(71)は第一声を聴いた瞬間をそう表現した。のちに山口百恵さんや松田聖子さんらを送りだし、新興のCBSソニーを大手に押し上げた人である。

 寺山修司が突然、言った。「前奏に波の音が欲しい、SE(擬音)はだめだ」。録音機を担いだスタッフが神奈川県の茅ヶ崎海岸で波の音を4時間近く集めた。「この波はしゃべり過ぎだ・・・・」と独り言を言いながら波音に聴き入る寺山に、酒井さんは「プロの殺気を感じました」。69年2月に発売され、深夜放送や有線に若者からリクエストが殺到、3ヵ月で100万枚を突破する。

 歌には寺山の、母(91年没)に対する個人的な思いがあった。—–父を戦地で亡くし、青森大空襲で焼け出された寺山母子は戦後、青森県三沢市で食堂を営む父の兄の家に移る。派手好きな母は食堂の賄いを嫌い米軍将校のハウスメードになる。

 真っ赤な口紅、厚化粧、ハイヒールで米軍基地に消えていく母を小学生の寺山は、列車の引き込み線から見送った。せっかんと親子げんかが続く。中学2年の時、母はこの将校を追って九州へ行ってしまう。母と子が一緒に生活するのはそれから8年後のことだった。

 寺山のいとこで、三沢時代を一緒に過ごした寺山修司記念館長の寺山孝四郎さん(75)は、「修ちゃんが最も憎み、最も愛したのが母でした。離れたい、でも離れられない・・・・・。その愛憎を優しい言葉に置き換えてあの歌を作った。僕にはそれがせつないのです」と言った。

 作詞家阿久悠(2007年、70歳で逝去)は朝日新聞の連載「愛すべき名歌たち」にこう書いた。「カルメン・マキは笑わなかった。歌うためのサービスに満ちたアクションはすべて拒否した。それに何より、不機嫌であった」(98年6月2日付)。

 九條さんが保存していたマキさんのインタビュー記事(69年3月)にこんなくだりを見つけた。—-取材中にマキさんが笑った。カメラマンが構えたら、マネジャーがあわてて制止した。「笑っているところ、撮らないでください、絶対に歯を見せないよう、寺山さんからきつく言われてるんです」。

 どうであっても、「誰もが無邪気な希望の持てなかった69年」(阿久)という時代に、「不機嫌な歌手」を送り出した寺山は「卓越したプロデューサー」(九條さん)だった。大ヒットはマキさんの生活を一変させる。テレビ、ラジオ、キャンペーン、マスコミ・・・・・。芝居を目指していたはずだった。不満が募り、「不機嫌」になった。今度は、「スターだから、笑え、笑え」と言われる。

 ある日、CBSソニーのスタッフにジャニス・ジョプリンのLP「チープ・スリル」をもらった。しゃがれ声で激しくシャウトするジャニスの声は、「ハンマーで殴られたような衝撃だった」。同じ歌を機械のように繰り返す「自分が嫌だった」。

(写真は兵庫県猪名川町柏原地区の田園風景)—–>
 
69年、NHKの紅白歌合戦に出場した。4番目にマキさん、次に越路吹雪が「愛の賛歌」を歌った。歌い終えた越路が、「タバコ吸わない?」と聞いた。母のあこがれの人だ。応援合戦の時、二人は舞台裏でタバコを吸った。

 長い髪に裸足の奇抜な新米歌手に、越路は優しく話しかけた。かっこよかった。「こんな自由な感じで生きてみたい」と思った。劇団を飛び出した。「人好きな寺山は悲しそうでした。マキは特別だったから」と九條さんは言う。

 ロック歌手になった。あの歌は忘れたかった。「『時には〜』を歌え!!」。ビアホールやディスコで客から何回も罵声が飛んだ。下積みを経て72年に、「カルメン・マキ&OZ」を結成、様々なバンドで歌いながら89年、出産を機に引退する。

 4年後、子守歌のアルバムを出す企画が持ち上がる。選曲していて自然に、「時には〜」が浮かんだ。寺山が亡くなって10年たっていた。「子育てを終え、自分の昔の音楽に抵抗がなくなった。寺山さんへの思いを言葉で表現したかった」。93年のアルバム、「MOON SONGS」に「時には〜」を入れた。24年を経ての再録音だった。

 この夏、私とカメラマンはマキさんの「追っかけ」を続けた。東京・高円寺のライブハウスで、40年を隔てた「時には〜」を聴いた。再録音とも違う、どこか吹っ切れた感じがあった。黒人霊歌「Sometimes I feel like a motherless child」で歌い出し、「時には〜」をはさみ、「サマータイム」で終えた。マキさんにとって、どの歌も因縁の歌だった。

 黒人霊歌は、「時には〜」を作るときに寺山が強く影響された歌で、「サマータイム」は彼女の人生を変えたLP「チープ・スリル」でジャニスが歌った。「詩が似てるから、そうしただけ・・・・・」とマキさんは言ったけれど、14分の長いメドレーは、「あの時代」への彼女なりの思いなのだろう。最近はカバーにもこだわっている。「誰の歌だって、いい歌はいい歌だから、引き継いでいくことも歌手の役目だと思う」。

 8月、「追っかけ」の最後の夜、アンコールは水原弘の「黄昏(たそがれ)のビギン」だった。けれん味のない自然な歌声に客席は静まり返った。終わって拍手とどよめきが続いた。10月、マキさんは寺山の歌劇「星の王子さま」で40年ぶりに舞台に立つ。美術・衣装の宇野亜喜良さん、女優の石井くに子さん、蘭妖子さんら、「天井桟敷」の仲間と再会する。来年、区切りの60歳である。(了)

(写真は寺山修司記念館・青森県三沢市大字三沢)—–>

『<song うたの旅人> この少女には負ける』
「時には母のない子のように」
寺山修司 作詞、 カルメン・マキ 歌
(2010年9月18日付け朝日新聞より引用)

 「劇団に、ボーイハントに来たんじゃないよねぇ・・・・・」。面接官が言いにくそうにして聞いた。17歳になったばかりの少女は小さくうなずいたけれど、東北なまりのこの人が寺山修司だとは知らなかった。

 1968年6月、東京都世田谷区下馬の住宅街にある演劇実験室「天井桟敷」の事務所兼けいこ場。米国人の父と日本人の母の間に生まれたマキ・アネット・ラブレスは都内の私立女子高校を中退し、劇団の研究生募集のオーディションを受けていた。歌手カルメン・マキさん(59)である。

 「奇優怪優巨人美少女鬼才天才英雄家出少年 来たれ」—–。3ヵ月前に見た「天井桟敷」の第6回公演「青ひげ」に感激し、奇抜な募集広告に興味を持った。「校則だらけの学校と違う世界があると、子どもなりに思った」。ライブ活動の合間に、世田谷区経堂のスナックで会ったマキさんは面接のきっかけをそう振り返った。

 寺山の隣に座っていた妻の九條今日子さん(74)はこの日を克明に覚えている。面接会場を舞台のように暗くして15人の応募者に「自分の人生」を語らせた。マキさんだけが大人びた声で淡々と語った。エキゾチックな顔立ち、無表情、「かげり」・・・・・。「歌でも何でも、特異なことやってみなさい」と寺山が注文した。マキさんは寺山をじっと見つめたまま、何も言わなかった。

 「強烈な存在感でした。この子には負ける、女優をやめてよかった・・・。正直、そう思いました。松竹映画の青春スター「九條映子」として売り出していた63年、騒がれて寺山と結婚し、劇団の制作者となっていた彼女は、「マキに時代を感じた」。九條さんと目が合うと、寺山は、「いいねぇ・・・」と言った。満足そうだった。

 3ヵ月後、マキさんは東京・新宿厚生年金会館の「書を捨てよ町へ出よう」で初舞台を踏み、寺山の「神様がやってくる日」を、「素人だから、聞いてもらおうと語りかけるように歌った」(マキさん)。「歌のうまい混血少女」(68年9月「天井桟敷新聞」)はマスコミに騒がれ始める。

 出版社「新書館」の寺山担当だった白石征さん(70)は、65年から女性向けの詩画集をシリーズで出版した。2冊目の「さよならの城」を校正中に一編の詩が目にとまった。「故郷の母のことを思い出したら」と題する詩で、寺山は詩の横にこんな注釈を入れた。

 「うたうように声に出して読んで下さい。しだいに心があたたまってきて快方に向かうでしょう」。白石さんも声に出して呼んだ。自然にメロディーが浮かんできた。「寺山さんのこんな詩は初めてでした。前衛と芸術を意識した作風とは違う、彼の無垢な思いにうたれました」。

 67年設立の「天井桟敷」は資金集めのため、寺山を囲む「サロンの会」を会費制で開いていた。作家や俳優志望の「寺山フリーク」が集まって前衛映画を見たり、詩や歌を即興で作ったりした。ある日の会で、会社員の田中未知さん(65)がこの詩に曲をつけてギターで歌った。彼女はその後、寺山が83年に逝くまで秘書兼マネジャーとして支え続ける。

 寺山は詩の一部を直し、題名を「時には母のない子のように」に変え、この歌のレコード化に「こだわり続けた」(九條さん)。面接会場に、マキさんが現れたのはそんなときだった。(文・斎藤鑑三)

(写真は兵庫県猪名川町広根地区の田園風景)—–>
2012年3月29日
『我が青春の歌』
<時には母のない子のように>
 
 私たち団塊世代の青春は、ヒッピースタイルの真似ごととミニスカートブームで始まった。1966年に来日した長髪の4人組、「ビートルズ」に熱狂した日本の若者たちはどんどん髪を伸ばしていった。

 ベトナム戦争の下、愛と平和を訴え徴兵や派兵に反発するヒッピー文化の影響もあった。岡林信康や泉谷しげる、そして吉田拓郎など、これだと思った歌手はみんな髪が長かった。当時の若者にとって髪を伸ばすのはごく当たり前のスタイルであった。

 その頃、ベトナム戦争が続くアメリカ社会は閉塞感や虚無感で包まれていた。「正義なき戦い」と言われた。1960年代後半、反戦運動が発端となり、髪を肩まで伸ばし髭も剃らず、ジーンズスタイルのヒッピー文化が生まれた。ヒッピーとは、伝統的な文化や社会体制など、既存の価値観に縛られた社会生活を否定し、人間として自由に生きたいと願う人々の総称である。

 日本でも1968年から70年にかけて、ベトナム戦争に反対し、大学当局の権威に反発する学生運動が勢いを増していた。ノンセクトと呼ばれる一般学生まで運動に加わった。彼らは髪を長く伸ばし、ヘルメットをかぶり、マスクで顔を隠して街頭デモに加わった。

 しかし、若者の反抗の象徴であったはずの長髪スタイルも、1970年代の中頃には短髪へと流れは変わっていく。若い頃は、自分に自信がないから髪や身なりにとらわれていたのだろう。権威や社会体制に対する抵抗の意思表示として髪を伸ばす若者もいたが、政治的信条を持たない大多数は、ただ流行に乗って長髪にしていたに過ぎなかった。

 やがて大学生活も終わりに近づくと、長髪でサングラス姿の自分をいつしか恥ずかしいと思うようになった。集団から離れることに不安を感じ、社会に同調することで安心を求める。もう若くはないと体制への抵抗を諦め、就職を前にして長かった髪をあっさりと切った。そうして企業社会に身を投じた世代が今、定年を迎えている。

 ところが、高度経済成長の繁栄を引き継ぎ、世界第二の経済大国へと登りつめる日本を支えてきた世代が定年を迎えた時、不幸にも長引く不況の時代と重なった。年金制度の信頼性が揺らぎ、景気の回復が期待できない世の中で、果たして現在(いま)の暮らしは守れるのか、介護される身となれば、本当に十分なサービスを受けられるのか。高齢化する団塊世代にとって厳しい老後が待っている。

 ところで、私の青春時代を振り返る時、必ず思い起こすオトコがいる。彼が大学を卒業した後、一度も会っていない。1947(昭和22)年、私たちは奈良県三輪で生まれた。彼とは幼なじみで、ほかに3人の友だちがいた。お互い結婚するまで、週末には彼の自宅に集まった。彼の父親にマージャンやアユ釣りを教わった。毎年6月に入ると、近くの室生川や木津川で友釣りを楽しんだ。

(写真は草むらの中から現れた雉・猪名川町広根地区)—–>
 
彼には姉さんがいて、音大を卒業した後ヤマハの音楽教室でピアノを教えていた。自宅でも音楽教室を開き、近所の子どもたちが通って来た。自宅には、ピアノはもちろん、エレクトーンが2台。彼からトランペットやバイオリン、ギターを借りて練習した。しかし、いずれの楽器もモノにならなかった。私には元々音楽的な素質がなかったようだ。

 1969(昭和44)年、私たちが大学3年の時、彼の母親が突然入院した。或る日、母親は「サザエの刺身が食べたい」と彼に告げた。それを聞いた私たちは、彼には内緒で三重県・波切の大王崎へ向かった。しかし、彼によると、刺身には手をつけず、壺焼きの臭いだけで満足したとのこと。食べる体力もなかったらしい。その年の暮れ、彼の母親はガンで亡くなった。

 年賀状を書く頃になると、彼と過ごした青春時代の思い出が次々と蘇る。私が京都で学生生活を始めることになり、二人は私の下宿先、西院へ向かった。布団をリヤカーに積み、ホンダのスーパーカブで引っ張った。彼がカブを運転し、私はリヤカーに乗った。国道24号線を京都まで走った。その帰り道、奈良県庁近くの文化会館で一人の黒人女性が歌う「黒人霊歌」のコンサートがあり、雨合羽と長靴姿で立ち寄った。

 映画も一緒によく観た。印象に残るのは、1968(昭和43)年6月、日本で公開された映画、「卒業」。テーマ曲は、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」。大学を卒業したベンジャミン(ダスティン・ホフマン)と幼なじみで大学生のエレーン(キャサリン・ロス)。そして彼女の母親、ミセス・ロビンソン(アン・バンクロフト)。

 大学を卒業したベンジャミンはミセス・ロビンソンから誘惑を受け、夜毎の逢瀬が始まる。エレーンの結婚式当日、ベンジャミンは教会に駆けつけ、二人が誓いの口づけをした場面で叫ぶ。「エレーン、エレーン」。ベンジャミンへの愛に気づいたエレーンは花嫁姿のままベンジャミンと教会を飛び出し、通りかかったバスに飛び乗る。二人はバスの最後部に腰掛ける。乗客の老人たちは花嫁姿のエレーンに驚く。座席に坐った直後の二人は笑顔を見せていたが、やがてその笑顔も消えていく。両親と決別した二人の将来に待つ不安を予感させるようなラストシーン。

 そして、LPレコードもよく紹介してくれた。とりわけ彼が気に入っていたのは、ミシェル・ポルナレフ(1944年生まれ)とホセ・フェリシアーノ(1945年生まれ)。ミシェル・ポルナレフはフレンチ・ポップスの歌手。日本では1971年、「シェリーに口づけ」、翌年には「愛の休日」がヒットした。ホセ・フェリシアーノはプエルトリコ生まれで盲目の歌手。ラテン・ポップスやボレロを得意とし、スパニッシュ・ギターの名手でもある。

 さて、私もこの2月、母親の一周忌を終えて、ふと思い出した歌がある。我が青春の歌、カルメン・マキの「時には母のない子のように」。作詞・寺山修司、作曲・田中未知。1969年2月発売され、3ヵ月で100万枚売れた。同年10月発売された「黒ネコのタンゴ」は220万枚売れた。1960年代の高度経済成長の時代に育った私にとって忘れられない歌、「時には〜」の誕生秘話を次に紹介させていただきたい。