(夕日に照らされ、長い影が伸びた自由の女神:ニューヨーク・マンハッタン島沖)—–>
2012年12月13日
『建国を象徴する民謡』
哀愁の響き・「マイム・マイム」
人には故郷(ふるさと)があり、民族には祖国がある。しかし、ユダヤ人にとって祖国は遠く、紀元前の昔から、差別と迫害による離散を繰り返してきた。歴史上確認される最初の迫害は、紀元前13世紀(1280年頃)の「出エジプト」。チャールトン・ヘストン主演の映画「十戒」でも知られるように、預言者モーセに率いられてエジプトを脱出し、カナンに逃れた。カナンとは、地中海とヨルダン川、死海に挟まれた地域を指し、パレスチナの古称。
中世に入ってからもユダヤ人への迫害は続いた。7世紀初めにはイスラム教が誕生し、聖地エルサレムはイスラム帝国の支配下にあった。11世紀末(1096年)には、キリスト教の聖地奪回を目す十字軍の遠征が始まった。エルサレムを奪回した十字軍はイスラム教徒だけでなく、ユダヤ人をも虐殺した。多くのユダヤ人は主に東欧、ロシアへと逃れていくが、移住先でもまた迫害を受けることになる。
キリスト教を本流とする欧米では反ユダヤ主義は古い歴史を持ち、ユダヤ人に対する偏見や差別による迫害が長く続いてきた。1881年、ロシアで「ポグロム」と呼ばれる大規模なユダヤ人虐殺事件が頻繁に起こり、10数万人が犠牲になった。ポグロムとはロシア語で、ユダヤ人に対する略奪、虐殺を意味する。同じ頃、ヨーロッパでも反ユダヤ主義が高まるにつれ、ユダヤ人への迫害が激しくなった。難民となった約200万人のユダヤ人が20世紀をまたいでアメリカに渡った。
そのような緊迫した社会情勢を背景に、ユダヤ人の国家建設を目的とするシオニズム運動が起こる。1897年8月、最初のシオニスト会議がスイスのバーゼルで開かれ、「パレスチナの地にユダヤ民族の郷土を建設する」とのバーゼル綱領が採択された。シオンとは、ヘブライ語でエルサレム地方の歴史上の地名であり、後にイスラエルの地全体を指す形容詞になり、シオニズムの語源となる。
1933年1月、ナチス・ドイツの政権が誕生すると、ホロコーストと呼ばれるユダヤ人への迫害が激しさを増す。そして1939年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発。約600万人のユダヤ人が殺害された。このため、ナチス・ドイツの迫害を逃れて多くのユダヤ人がパレスチナに押し寄せた。
やがて、ナチスによるユダヤ人大量虐殺が明るみに出ると、国際社会の同情がシオニズム運動を後押しした。1947年11月29日、国連総会は、それまでイギリスの委任統治下にあったパレスチナをパレスチナ人とユダヤ人の国家に分割し、エルサレムを国際管理下に置くというパレスチナ分割決議を採択した。
委任統治最終日の1948年5月14日、初代首相となるダヴィド・ベン=グリオンに率いられたユダヤ人は、テルアビブ美術館の前庭でイスラエル国家の成立を宣言した。しかし、翌日の5月15日、周辺のアラブ諸国はイスラエルに対して宣戦を布告、第一次中東戦争が勃発。結果はイスラエルの勝利に終わり、パレスチナでの領土を拡大した。しかし、約80万人のパレスチナ人は土地を奪われ、難民となった。
ところで、フォークダンスの曲として「コロブチカ」や「オクラホマ・ミキサー」と並んで有名なのが「マイム・マイム」。この曲が、差別と迫害から逃れ、パレスチナに集まってきたユダヤ人の中から生まれた。しかも建国を象徴する民謡であると、2012年6月16日付け朝日新聞で初めて知った。
しかし、イスラエルはユダヤ人によって住む土地を略奪され、追放されたパレスチナ人の犠牲の上に建国された。追放の苦しみはユダヤ人が最も知っているはずだ。そこで、11世紀以降、東欧に流入していったユダヤ人が何世紀もかけて流浪の旅をした末に生まれた彼らのポピュラー音楽「クレズマー」の変遷と、ニューヨークに住むクレズマー音楽家が「マイム・マイム」に如何なる思いを託して歌うのかを次に紹介させていただきたい。
(ニューヨーク大学にあるユダヤ教の会堂で、早朝の礼拝をする学生たち)
『<song うたの旅人> 胸騒ぎする哀愁の音楽』
イスラエル民謡「マイム・マイム」
(2012年6月16日付け朝日新聞より引用)
ニューヨークで自由の女神像を見るたびに、ユダヤ系の映画人、S・スピルバーグが制作総指揮したアニメ映画「アメリカ物語」の挿入歌「アメリカには猫がいない」を思い出す。ロシアを追われたネズミの一家が主人公だ。アメリカは自由の国で、ネコはいない、不条理な暴力や迫害はない、と信じ、アメリカに渡るという物語だ。
フランスから贈られ、1886年に完成した自由の女神は、移民たちの「希望」を象徴するたいまつを掲げ、ユダヤ人に限らず数多(あまた)の新参者を迎えた。ネズミはユダヤ人の暗喩だ。紀元前から、離散を繰り返してきたユダヤ人。主に11世紀以降、東欧に流入していくが、欧州各地で間断なく迫害を受けた。
そして、19世紀末、ロシアでは反ユダヤ暴動が激化。ネズミの一家のように多くのユダヤ人が暮らしの場を追われた。そんなユダヤ人が1881〜1920年、アメリカに渡った。推定約200万人。多くはニューヨークに住んだ。アメリカにも小さなネコはいた。差別も受け、厄介者扱いもされた。ただ、露骨な攻撃はなかった。
50代後半の記者にとって、最初の「ユダヤ音楽」は、小学校のフォークダンスで習った「マイム・マイム」だった。楽しい旋律の奥に、漠然とした哀愁を感じたのを覚えている。昨年暮れ、都内でクラリネット奏者の大熊ワタルさん(52)が率いるバンド「シカラムータ」の演奏を聴いた。その中に、東欧系ユダヤ人のポピュラー音楽を総称する「クレズマー」の言葉で説明された演目があった。物悲しくて、懐かしい、そして胸騒ぎがする。幼い頃、「マイム・マイム」に感じたそれに似ていた。
大熊さんは、各地の街角を演奏して歩くチンドン屋出身の奏者だ。15年ほど前、クレズマーの旋律に琴線をくすぐられた。大熊さんが教えてくれた。「クレズマーは、何世紀もかけ、東欧やバルカンを旅して各地の音を吸収し、パッチワークのように縫い合わされた音楽なんです」。クレズマーとは元々、ユダヤ人の「樂士」を意味する言葉でもあった。
大阪大学大学院教授(音楽学)の伊東信宏さん(51)も、クレズマーに触れ、胸が騒いだ一人だ。「子どもの頃になじんだ音楽、たとえば『魔法使いサリー』の旋律のエキゾチックさはクレズマーの響きです」。一方で、記者は、ユダヤ文化研究者の赤尾光春さん(39)から、「(歴史的に)『マイム・マイム』は、クレズマーと断絶している」と教えられた。
確かに、「マイム・マイム」はイスラエルで誕生した新民謡とされ、東欧系ユダヤ人の音楽ではない。ただ、イスラエルはユダヤ人により建国された国だ。クレズマーと「マイム・マイム」。どこかでつながっている気がしてならない。
そんな時、クレズマーの音源に詳しい松山大学教授(ドイツ文学)の黒田晴之さん(50)から聞いた。「『マイム・マイム』をアルバムに取り込んだクレズマー音楽家がいます。ニューヨーク在住です」。(文・春山陽一、写真・金川雄策)
♪Song
さばくの真中(まんなか) ふしぎなはなし みんなが集まる いのちの水だ
マイム マイム・・・・ベサソン
ラクダも集まり キャラバンやすむ 緑のオアシス 夢かとばかり
マイム マイム・・・・ベサソン
お祈り忘れりゃ これまたふしぎ たちまち消え去る 魔法の水だ
マイム マイム・・・・ベサソン
志村建世自由訳詞から。志村さん(79)は1967年に唱歌集『ゆかいな歌』(野ばら社)を発刊した際、作者不明の歌と考え、「水が出たよろこび」の意味以外は「自由に発想して」詞を書いたという。その後、JASRACに相談して、作詞・編曲がエマヌエル・アミランと知る。
兵庫教育大学名誉教授の水野信男さん(71)によると、イスラエル建国前後の民謡とされるが、はっきりしない。「マイム」はヘブライ語で「水」。旧約聖書・イザヤ書12章3節の「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む」から歌詞がとられたという。フォークダンス曲としては「コロブチカやオクラホマ・ミキサーと並び有名」と日本フォークソング連盟参与・長友正孝さん(72)
(写真:フォークダンスの輪が花びらのような影を作っている・ニューヨーク)
◆「離散の果てに継がれた系譜」
旋律の奥にクレズマーのような響き
「君はスギハラを知っているか」。全米有数の「イディッシュ劇場」の芸術責任者、ザルメン・ムロテックさん(60)は、ニューヨークまで取材にやって来た記者にそう尋ねた後、背を向けて嗚咽(おえつ)をもらした。イディッシュとは、東欧・ロシア諸国に定住したユダヤ人が日常的に使った言語だ。
ザルメンさんの両親は、ニューヨークで半世紀以上にわたり、イディッシュ文化の保存に尽くした人物。父親のジョセフさんは既に亡くなっているが、70年以上前、「スギハラ」という日本人に命を助けられた。
杉原千畝(ちうね)(1900〜86)。リトアニアのカウナスの領事館に勤務していた外交官だ。杉原は、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の翌年の1940(昭和15)年、日本を経由して第三国へ逃れるほか道がなかったユダヤ難民に、本国外務省の許可を得ずに通過ビザを発給した。
ジョセフさんは、そのビザで逃れた約6千人の中の一人だった。神戸、上海を経由してアメリカへ。そこで、アメリカ生まれのユダヤ系女性ハナさんと出会い、結婚した。ハナさんはユダヤ人音楽の遺産を救うために一生を捧げた研究者だ。
「90歳の母が君に会いたがっている」。ザルメンさんに誘いを受け、夜、ロワーイーストサイド(LES)のムロテック家を訪ねた。LESは19世紀末から20世紀初め、ユダヤ系移民がひしめき合って住んだ地区だ。談笑中にハナさんが、「ユダヤの音楽は、世界をさまよった民族の経験の上で成立している」と、短い言葉で話してくれた。
ユダヤ音楽史に詳しい兵庫教育大学名誉教授水野信男さんから渡米前に聞いた言葉を思い出した。「『離散』の歴史を抜きにユダヤ音楽は語れない」。
ユダヤ人は古代から、欧州のほぼ全域、北アフリカの一部に移住した。音楽は、結婚式など仲間の行事には欠かせない娯楽で、放浪する樂士「クレズマー」が中世末になると、中欧〜東欧で活躍するようになる。
だが、欧州でのユダヤ人迫害は続き、20世紀をまたいで多くの難民が東欧から米国に渡った。それまで過ごした国と違い、ここではシナゴーク(ユダヤ教の会堂)を作っても、固有の民俗行事を催しても、かつてないほど放任してくれた。音楽や文化を継承する機会が得られた。
20世紀初め、ユダヤ民衆の最大の娯楽はイディッシュ劇だった。そこに音楽はつきもので、ヒット曲は時にユダヤ社会を飛び越え全米に流れた。特に1920年代には盛んに、彼らの音楽は楽譜として出版され、レコード化された。口伝だったクレズマー音楽が形に残った。
クレズマー音楽は一時下火になったものの、60年代後半の「フォークリバイバル」で息を吹き返す。80年代後半になると、クレズマー音楽は、ジャズやロックなどと交流し前衛性を増す。その新世代の代表の一人が、松山大学教授の黒田晴之さんが教えてくれたデビッド・クラカウアーさん(55)だ。
2001年のアルバムに「マイム・マイム」が入った曲がある。「叫びともうなり声ともつかぬ音」(黒田さん)、軽快なフォークダンス曲とは程遠い。「編曲」の意図を、ニューヨークでクラカウアーさんに聞いた。温厚な口調だが、話の矛先は鋭く、「国家」や「文化」に向かった。その言葉はこんな内容だった。
「子どものころ、キャンプで覚え、演奏者になってからは結婚式で頻繁にリクエストされた『マイム・マイム』には、どこか物足りなさを感じていた」。「イスラエルで生まれたこの曲は、シンプルで人工的で、去勢された印象が拭えなかった」。
「イスラエルは、『離散』という民族の過去を否定して生まれた国。ぼくらが大切にしてきたイディッシュ文化を、半ば捨てたように、クレズマー音楽をも、ただの『犠牲者の音楽』として位置づけている、とぼくの目には映る」。「だから、イスラエルの建国を象徴する『マイム・マイム』に、古くから伝わるイディッシュ文化の命を吹き込もうと、アレンジした」。
イスラエルは、迫害されたユダヤ人が19世紀に起こした「シオニズム運動」によって、1948年に建国された。旧約聖書に書かれた「祖先の地」に国家を創ろうとする運動で、結果的に、ドイツによるユダヤ人大量虐殺への国際社会の同情が、運動を後押しした。
しかし、この地に住んでいたパレスチナ人側から見れば、土地を略奪され、追い出された格好だ。追放の苦しみは、ユダヤ人が最も知っているはずだった。クラカウアーさんは、編曲の意図についてこうも言った。「血と肉を入れ替える」。この言葉にユダヤ人とイスラエルへの屈折した愛と覚悟が見えた気がした。
「マイム・マイム」が生まれたとされるイスラエル建国前後、そこには、「離散」の歴史を背負い、アラブ、東欧、ロシア、バルカンなど、様々な地域から集まってきたユダヤ人があふれていた。そんな彼らの体に染み付いた「音」が「マイム・マイム」を生んだ。だからこそ、「過去を否定して生まれた国」の曲であっても、旋律の奥に、クレズマーの哀愁が漂っているのだろう。(了)